昭和20年ごろ 跳ねでわかる履物の世界
20年8月終戦、20年9月軍在庫の羊毛が3万俵放出され、21年6月戦後始めて7千俵の羊毛が四日市港に荷揚げされた。
尾西を中心にこの地方は、なにを織っても、日本中からすし詰め列車に乗ってきたお客さんに引っ張りだこで売れた。
これが世にいう「ガチャ万」(ガチャと一織りすれば「万」と儲かるという意味の言葉ができるほどだった)
当然繊維関係者とは生活の格差ができるのは致したがない。焼け出されて逃げるようにこの一宮に住み込んだ私たちとは、雲泥の差であった。
繊維関係の家庭の子は運動靴、その恩恵を受けている家庭の子は、下駄。焼け出され組みはゴム草履。このゴム草履のことを「万年ジョリ」といった。万年も持つ草履(ジョリ)である。雨が降ると、ジョリは背中はおろか頭まで泥が跳ねた。下駄は背中、靴は足元をぬらした。一目でなにを履いてきたか分かった。
下駄を履くようになると、この下駄の歯の隙間に、自転車のペタルがぴたりとはまり込む。自転車に乗ってはまってしまって困ったのは誰でも経験があると思う。この下駄の歯に自転車のタイヤを接着させて長持ちをさる工夫もした。
おやじ達は革靴が使えなくなると、スリッパのように指の部分以外は切り取って使っていた。
今雨音を聞きながら、ずいぶん懐かしい昔を思い出していた。庭の家庭菜園の野菜も雨がうれしそうである。
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コメント
昔のことを書くのはいいですねえ。この路線でやってくださいよ。
ただ、もうちょっとイラスト、根性入れて書いてほしい。成瀬さんならできる、やれる。暇はある。
楽しようと思っちゃいかん。まっと根性入れてやってくれっ!
投稿: 舟橋武志 | 2005年6月29日 (水) 10時49分