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2005年7月 9日 (土)

昭和20年ごろ チンドン屋が来た

tindonya 遠くのほうから「チンチンドンドンチンドンドン」と浮き立つようなジンタの音が聞こえてくる。あのころの曲は「空にさえずる鳥の声・・・・の天然の美」とか「サーカスの唄」「丘を越えて」とか、テンポのいい曲を流していた。トランペットとクラリネットが主人のチンドンの後に続く。一番後ろは旗持ちで、厚化粧したおばちゃんやピエロが面白おかしく踊りながらビラを配って歩く。

所々で口上が入る。「とざい東西~っ」ってね、店の宣伝をするんです。

どういう分けかこのチンドン屋が好きでした。鳴らす音楽もいいが、もうひとつビラが気になって仕方がない。あの固まった広告チラシが気になって仕方がない。

ある時、このビラ配りの役をやらせて欲しいと頼んだ。そしてずいぶん遠くまでビラを配りながらチンドン屋の後についていった。これを近所の誰かが、「あんたんとこの子、チンドン屋のビラ配りをやっていたよ」とお袋にご注進におよんだ。

そんなこと知らない私は、快い労働の疲労感でご機嫌になって帰ってきたら、お袋のビンタを食らった。理由は「うちはそんな貧乏していないよ」というようなことを言ったみたいだ。今なら「そりゃ偏見だぜ」と言い返せburasubandoたが、当時はただ痛さで泣いただけだった。

中学校に入るとジンタの影響で吹奏楽部に籍を置いた。コルネット、トロンボーンをやったがモノにならず、小太鼓に落ち着いた。市内でわが中学校と消防署しか楽団がなく、市民体育祭があると国旗掲揚の「君が代」から「君が代行進曲」や「軍艦マーチ」の行進曲やマーチを一日中吹奏していた。

今でもチンドン祭が近くであると落ち着かなくて、必ず出かける。

もうひとつ和太鼓集団が来ると、これも落ち着きをなくす。鬼面太鼓や鬼太鼓座(おんでこざ)なんかが来るともうダメで、ウロウロ状態となる。

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