愛太郎という爺さん
私のオジーさんに、愛太郎という名前のわりには、骨太な頑固なジーさんがいた。
「コラーッ! シゲ坊主、また悪さしやがって」
と叱られる。(なんで? 僕がやったんでないのに)
いつもこんなんで、従兄弟同士が寄り集まると、きまって僕が叱られる。マァーだいたいが悪さの中心に僕がいたのは確かだが。
終戦後、休みというと、必ず母親方の在所に従兄弟達が出かけていた。10人近くが集まれば大変騒々しいのは確かだが、騒ぎが起きると決まって、「シゲ坊」というオジーさんの怒りの声が聞こえてくる。
「わ~っ! なまず電車が怒っている。逃げろ~っ」
このなまず電車というのは、名鉄電車の「850型」愛称が「なまず」であった。これが額に三本の皺を寄せたようなデザインで、 どう見てもオジーさんの怒り狂った額に似ていた。
おばが、「シゲちゃんが、ジーさんがあんまり怒るんで、なまず電車と言っているよ」というと、「なにシゲ坊主が」とまた怒る。
何でこんなに僕が叱られなきゃいかんのかという、不愉快な気分は全くなかった。これがジーさんが亡くなってもう50年になる最近になって、おばが言った。
あのころ、ジーさんの弟の子には叱れなかった。一番上の娘の子は、伊勢にいて、なかなか来られない。伊勢というと今では2時間もすればこられるが、当時は半日がかりでしか来られない。もう1人は、オヤジが終戦直後事故でなくなって、親の顔も知らない従兄弟であった。
こんな環境で、叱りやすかった「シゲ坊」が、叱り付けるのに格好な対象になったという。
私のオヤジも、叱りつけられている息子を、平然と見ていた。オヤジもこの従兄弟達の環境を感じていたのだろう。ところがドッコイ、ワシは傷ついたと普通はそう思うでしょうが、私はこのジーさんが大好きでした。
叱られて叱られても、また遊びに行く。そして昔話をせがんだ。
私のオ
ヤジが昭和29年に他界した。子供を5人抱えて未亡人となった娘(私の母親)を気にして、よく家に来てくれていた。寒い冬に黒マントを羽織ってやってきた。 縁側の陽だまりで、ジーさんの昔話に耳を傾けた。
そのジーさんの50回忌がこの10月にある。叱られた原因は、もうどうでもいい、懐かしい話しを従兄弟達としてみたい。忘れかけた懐かしい思い出を追いかけてみたい。
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