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2006年10月13日 (金)

妙興寺の老師の部屋は震度5だった

親父の本家の法事があった。この家の旦那寺は「妙興寺」である。今日の和尚は妙興寺の二十世稲垣老師である。法事が終わり、会食となったときに、妙興寺の庭にある句碑の話になった。_012_1

ここには「親のなき子等を伴ひ荒海を渡り帰らんこの荒海を」と掘り込んである。これは第18世の妙興寺の河野宗寛老師の歌である。

これは昨年7月に「すごい和尚がいた」という題で、ブログに7話にして連載した。https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=5642669&blog_id=116845

終戦直後の満州から溢れる孤児を300人救い出した苦労話を、短歌で綴った話である。これに私は感動して、こんな和尚がみえることを知って欲しいと思い、連載させてもらった。この話しを老師にすると、なんと老師が私のブログを読んでおられたことを知った。老師が「これを書いた人に一度会ってみたいと思っていた。それが、なんと意外やこんな近いところにみえたとは」と奇遇を喜ばれた。

今度は私が驚いた。老師に読まれていたとは、話しを創作しなくてよかった。事実を忠実の書いてよかったと胸を撫で下ろした。老師が「この歌を綴った『慈眼堂歌日記』に改訂版があるから、寺に取りに来るように」とおしゃった。

先日マウンテンバイクで頂きに上がる。庭先にマウンテンバイクを止め、庫裏の上がりがまちにヘルメットと手袋を置き、待合所で老師を待った。表の庭はよく見るが、裏庭は中に入らなければ見られない。鳥が鳴き盛んに飛び交う花鳥風月を感じる静かな庭である。この庫裏は明治30年に再建されたという記述があるから、110年経っている。

襖も滑りをよくするテープを貼り、少し茶だんすが傾いているのは畳が沈んできたのだろうか。雲水が老師の部屋に案内をしてくださった。寺の一段奥まった2階が老師の部屋であった。大きく放たれた窓から、庭が一望できた。「いい眺めですね」と私はつくづく言った。

お茶を点ててくださった。我がクラブでN君が民間ではただ独り、雲水に混じってここで修行している。我が家の旦那寺の跡取り息子が、N君の座り方を見ただけで、この人には太刀打ちができないというほどだ。老師と禅問答するまでになっているという。そんなよもやま話をして、本を出された。_003_7

本は『慈眼堂歌日記』『一禅僧の自伝』(いずれも河野宗寛著)『妙興寺散歩』を三冊も拝領してしまった。

これを頂いてグラグラしたが、なんとこの老師の部屋もグラグラした。老師が笑いながら、「柱が細く、造りが悪くてね、私が動くとグラグラする」と、ワザワザ揺すったら、本当に震度5だった。

庫裏の裏に増設された部屋で、住まいは後回し、本堂とか修業道場が先だという。

「歴代の老師は400年で私が20代目だから、一代20年という。どうも早死にをされている。これはここの水が悪いという話がある。でもそんなこといったら、近隣の人も同じだが」と老師は笑った。

頂いた本が三冊、マウンテンバイクに掛けたビニール袋の中で嬉しそうに揺れている。

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