駅伝を見ながら、苦しかった日を思い出す
1月14日、全国都市対抗女子駅伝が行われた。愛知の2区の湯田
さんが29人抜きという快挙をなし、鈴木さんが2位でバトンタッチするときなんか、思わず行け行けと叫んだ。駅伝はどうしてこんなに興奮させるんだろう。
それに駅伝てさァ、なんであんなに苦しそうな顔してバトンタッチするんだろう。バトンタッチすると、バタッて倒れるのは、「ワシャ、一生懸命走ったもんね」と、世間に向けてのアピールしていると思っておられる方が多いと思う。私もそう思っていた。
たぶんこの駅伝を経験していないランナーですら、そう思っている。ランナーの君もそう思っているだろう。一度経験したらいい。ワシはねッ、こう見えても(どう見えるか?世間では鈍足ランナーと言われてるの)2度駅伝に出場した。
1989年2月に、大垣の西濃駅伝に参加しようということになった。ここは7区間39kmである。走り始めて5年目で仲間も威勢がよかった。1区は地元でも早いほうの若いS君を入れた。彼は白バイの後ろを途中まで付いて来たという。
2区以降は我がクラブ員で走るが、5区につなぐころには、100m及ばず白タスキ、5区は辛うじて白タスキがつながったが、6区の私からアンカーで、また白タスキがつながらず、2度目の白タスキであった。結果は200チーム中180番ぐらいだったと思う。
200チームからのランナーを迎える 中継点の緊張感は特別で、自分のチームのランナーを確認しようと覗き込む。その後の人はまた覗く、その後はと、ドンドンコースが狭くなって、中継したランナーが通る道は、やっと2~3人が通れるぐらいのコースしかない。
タスキを受けたランナーはものすごい勢いで飛び出して行く。それを見ていて、あんな勢いでは1kmも走るともうバテル。自分はゆっくり行こうと心に決めていたのにもかかわらず、いざ仲間が来ると、もうすっかり自制心をなくし、ものすごい勢いで飛び出して行く。アッという間に息が上がる。この時の私の記録が、5.9kmを25分01秒であったから、当時でも早い記録だから驚きだ。
この駅伝をエサに、また仲間と飲む。
羽島に若鯱駅伝があるからと、稲沢の走友会から誘われた。合同で2チームを作った。1区と2区は地元の速いランナーを導入。3区は我がクラブのK会長、ここでガクッと抜かれ、4区の私でゴボウ抜きにあう。もう中学生にドンドン抜き去られた。5区からアンカーまでは段々と早くなるから、抜かれたのを抜き返すという快感があるからいい。
ワシはストレスが溜まる一方であった。やっぱりゴールすると、足はガクガクであった。
日本最初の駅伝競争は,大正6(1917)年4月27日から3日間にわたり開催された,奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」である。その競争区間は、京都・三条大橋~東京・上野不忍池の博覧会正面玄関の508kmを、23区間に分けたものであった。記念の石標は,そのスタート地点として駅伝の歴史の始まりの地となった三条大橋に示すものがある。
日本には元々飛脚があり、江戸時代は江戸京都間を70時間で走り抜けていた。面白い記録がある。松の廊下での刃傷事件をいち早く、赤穂に知らせる飛脚が走った。660kmを5日で駆け抜けた記録がある。
いまや駅伝は「EKIDEN]として国際的になった。また今度の日曜に男子の駅伝がある。楽しみだ。
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