ハザードマップを検証する
市から広報と一緒に1/28000のハザードマップが送られてきた。ここ一宮ではこれを「きづきマップ」と呼んでいる。
人が住み着く前から、地成りというのがあり、自然と安全な地を求める。そこに集落が出来上がってきたことぐらいは私でも分かる。この尾張地方は、太古の時代は木曽川、長良川、揖斐川の運んできた土砂によって出来上がった砂州だ。
小池昭著の『濃尾平野の歴史一・原始・古代編』によると、いまから
35000年前はこの濃尾平野から見える養老山地、金華山、鵜沼から犬山のかけての山すそまでが、全部が海で、ここを「熱田海」と呼ばれていた。そこへ犬山鵜沼方面から木曽川が流れ込み、5つの支流を作りながら、台地を作っていった。上のイラストは「尾張国古図で、養老元年(717年)三河国猿投神社所蔵・写」から私が写し取ったものだが、これは、単に島のつく地名を島と見なしたという説もある。でも標高を見るとこれらは意外に高いことも分かる。
右の写真は、一宮市のハザードマップに色紙を張り付けた。右から
ピンク、これは鎌倉街道である。真ん中の薄茶色は岐阜街道、一番左の黄色は美濃路街道である。
この地図の中の青い線で囲まれたところは、木曽川が切れたら浸水する地域。赤が日光川、緑が青木川・五条川である。
これは街道が出来上がった歴史を物語っている。昔の旅人は、一番近道の、海岸線の近くの土地の高い所をたどっていたと思う。そしてだんだんと大地が出来上がってくるにしたがって、大地も街道も南に下がってくる。
岐阜街道、そして美濃路、佐屋街道の原型が出来上がっていった。
先にいったように、地の高い所をたどって歩き、道路を作るということは、私が知る限り美濃路あたりでその記録が出てくる。だからその前の街道は自然と標高が高い街道だということだ。だから曲がり放題に曲がっている。とくに鎌倉街道を歩くとよく分かる。
平成12年9月11日、台風14号に刺激された秋雨前線が、篠突く雨を降らせていた。12日午前3時半ごろ新川が名古屋西区で決壊した。通称東海豪雨である。これで西枇杷島は浸水した。
家の近くの大江川を見に行くと、もうギリギリの所を流れている。この川は掘割で堤防が無い。あふれた分だけ低いところに流れていく。この川の西側は昔からの民家が立ち並ぶ町だが、東側は、戦後私がここの住み込んだ時は、まだ田んぼや畑ばかりであった。その影響がモロに出た。埋め立てたところは低いのでそちらへドンドン流れ込んで行く。
新川はどうかというと、水没した真ん中あたりは、昔は蓮田であった
と聞いた。要するに沼地である。名古屋の西区から枇杷島を通り、清須、稲沢、萩原、起、羽島、大垣へ美濃路街道が通っている。西枇杷島は北から五条川、新川、庄内川と三本の川が流れていて、その真ん中の川が切れた。だから真ん中の西枇杷島はまるでプールの中に沈んだようになった。右の地図は明治24年のもので、今のJRの通っている左右が水没した。「し」の字に曲がった民家の立て込んだところが、美濃路である。
その中でも美濃路街道筋だけは、ここから尾西の起まで約20kmの間は、道路の冠水はわずかであったという。これで分かるように、旧街道筋は昔から標高が高いところに出来上がっていることが、実証された。
さてハザードマップを見てみると、わが町内は鎌倉街道筋になるから心配はない。そのほかの街道筋も思ったとおり大きく沈むところはなさそうだ。実は鎌倉街道筋だと知ったのは、10年ほど前に旧街道をずいぶん捜してジョギングしいた時期がある。市町村の発行している市史や町史のたぐいを読んで地図に印を入れていく。そして家の前が鎌倉街道と知った。いまでも町内のだれも知らないだろう。
でもいまは旧街道も町の中に埋没してしまい、ほとんど捜すことすら難しい。だから、この旧街道筋は水没しないという確証は無い。
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