御鍬祭が始まった
昨年から尾張地方のあちこちで、御鍬祭(おくわまつり)が行われています。昨年多かったが、今年の3月になって海部郡甚目寺町から、昔使っていたダシが出てきたので、それを使って祭りをやるという。以下が記事である。
ーー甚目寺町上萱津の萱津神社で、190年前に作られた御鍬(おくわ)祭の鞍2つが見つかった。一部が破損しているが、約60年に1度行われた過去3回の御鍬祭でも使われたとみられるなど祭りの長い歴史を背負った証拠の品。4月13日に、60年ぶりに行う御鍬祭で馬に乗せて披露される。
鞍は、氏子らが祭具倉庫を探した際に見つかった。一つは破損が激しいものの、「文政元(1818)年8月吉日」と彫られていた。もう1つは比較的保存状態が良く、漆塗りに松の文様が描かれているが、制作年代は彫られていない。ーー
この始まりは、昔、伊勢神宮で、榊(さかき)の枝が鍬の形に生えたことがあった。これは60年に一度と言われている。それを吉兆として「御師」という、伊勢神宮のお札を配る役目の人たち、ただし神主ではないが、下級の神職が、その枝を配って歩いたそうです。その鍬形を受けた村が、その時代の村のあらん限りの力を振り絞って賑やかな祭をしたそうです。
平成19年がその60年目に当り(前回は昭和22年)、過去にも尾張では海部郡、中島郡のあちこちで行われた。残念ながら旧葉栗郡(一宮市北部<旧木曽川町含む>及び江南市北部)では60年前には行われた記録はありません。
『猿猴庵の本』といのが、名古屋博物館から発行された。この猿猴庵が克明に絵と文で記録している。文はなかなか美しい草書体で手強い。でも、もう13冊目になるから、随分と古文書が読めるようになった。
お蔭で、碑文などがあると、すぐに飛びついて、読み解こうとする。読めなきゃ控えてきて、調べる。凝り性なんだろうか。
さて、この猿猴庵という人は、江戸時代半ばの宝暦6年(1756)に名古屋で生まれ、76歳で没した文筆家兼画家です。市井の出来事の見世物、開帳、祭り、芝居、珍事などを取材した、独特な記録絵本を中心に、多数の作品があり、それを2001年10月から今に発刊が続いている。
この中に、御鍬祭りが2冊発刊されている。これを見る限り、各村が精力的に取り組んでいる様子が描かれている。始まりは元禄16年(1703)で、以降は明和4年(1767)、文政10年(1827)、明治21年(1888)、昭和22年81947)とだいたい60年周期で開催されている。
「伊勢神宮の御師が、そろそ鍬神を配りにくるころだという認識が人々にあり、祭りの準備にかかる。時間がタップリあるから、大掛かりに作り物、仮装などが作られた。
私の町の真清田神社の神官に、お鍬祭りのいわれを聞いたら、あまりよく知らなかった。
そこで昔はどんなお鍬祭りをやっていたか、見てください。ものすごい精力だから。
おたふくおどり出立さまざま。跡より大きなるおたふくの面を釣(つる)。後に木綿をつけて、ほろのごとくにして、大勢ひ祖内(そのうち)へ入行(いりゆく)。
是は此の頃新製なり其形大きくつくりて雪まるけのごとし。
真白に雪丸けともみつぎもの実(げに)豊年の餅ぞ似合し。
鈴之舞禰宜
神子の茶利 坊主は道化 まつだけや とかく笑は 下家切なれ。
箕にて獅子頭をつくり大かぐらの趣向。獅子頭の舌はしゃくし見立もの
獅々うかす 酒の座しきの おかめうた どどいつ 土井の切の そめきじゃ。
いかがでしたか。祭りに掛ける庶民の力は、そうとうなものです。いま一宮は、商店街が寂しくなっている。閉店が続いてシャッターが下りた店が多くなっている。これをなんとかせねばと、いろいろNPOとかが仕掛けているが、一番のガンは、商店街そのものである。
空きの商店を貸すにも、高額を要求するようでは誰も入り手がない。この本町通りを、小さなスーパーに仕立てれば、近隣の人が寄ってくる。郊外形のスーパーが多くなる一方、市内の中心に住む独居老人の買い物をする場所がない。これを解消するには、このシャッター通りを、魚屋も八百屋も乾物屋、食べ物屋もある商店街にすれば、みんな寄ってこられる。しかもアーケードがあるから、雨や日除けにも最適だ。
馬鹿なところに金を使うのでなく、これからの老人社会を見ての、街づくりをして欲しい。
近々一宮駅に隣接して、4年制大学ができるという。そうなれば、若い人が寄る環境整備をした方がいいと思う。
昔の人の、あの祭りにかけるエネルギーを、今一度思い出して欲しい。
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