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2008年4月21日 (月)

世界遺産の五箇山は、その昔は火薬生産地であった

私の友人Y君の母親の在所が、この五箇山なんです。この在所が民宿「勇助」をやってみえる。さっそく6月にここへ家族旅行をすることになった。今日予約の電話をして、色々話を聞いてみた。「そろそろ山菜が採れるころですよねェ」というと、「ここは草一本抜いてはいけない」という。世界遺産だから、合掌造りは全て博物館と同じと思い、勝手に人の家をのぞきに来る人が多かったという。

昔は家の中まで入ってこられたという。今はそれも、広報活動のお蔭で随分改善されたといった。

世界遺産の中の生活というのは、誰かにのぞかれているという厳しい生活環境を余儀なくされるものだと思った。

しかし、7月には「東海北陸自動車道」が開通する。そうなると都会からドンと人が短時間に入る。さてこのルールが、はたして守られるだろうか心配になる。

至れり尽くせりのホテルもいいが、昔そのままが残っている五箇山がなんともうれしい。なにがあるのかワクワクする。山登りやマラソンをやっていたころならば、五箇山を走ってみたい衝動に駆られるだろうなァ。でもご心配なく、折り畳み自転車を持ち込むつもりではいる。

この五箇山はその昔、鉄砲伝来と変わらないころ、すでに火薬が製造された記録があるそうだ。雑穀しか採れない村としては、オシッコが産業の基盤になったのだから、悪い話ではない。熟成された下肥にはアンモニヤ分がいっぱいで、これを田畑にまくと、土壌の中の硝化菌という細菌と酸素の作用で、硝酸塩ができる。これのイオウや木炭を調合すると火薬となる。

1543年、種子島に鉄砲がきたが火薬がなく、中国から硝石を輸入Photo_3 していた。1570年、加賀の五箇山の村で硝酸塩をつくり、黒色火薬をつくっていた。これは日本が下肥を溜めていたことがきっかけとなった。何の科学的施設もない村で火薬つくりは始まった。床下に穴を掘り、下肥を少量仕込んで土をかぶせ、1年ほどおくと硝酸塩ができた。

その昔は、築後半世紀した古い家の床下、とくに便所、台所、馬小Photo_4 屋などの床下の土を集めて水に溶き、その溶液にワラ灰を水に溶いた上澄み(灰汁)を加え、一度煮立ててから冷ますと硝酸塩の結晶がとれる。

でもこれだと半世紀もかかる。世の中が落ち着いた天文年間(1736~40)に年間生産量は1260貫目(4725kg)というから相当なものであった。

床下で火薬を作り、一階で和紙を作り、2・3階で蚕を飼っていた。あの立派な建物は、ただの民家ではない。立派な生産工場であった。

「勇助」が気になる方は、下記のホームページをご覧あれ。

http://ww2.ctt.ne.jp/~dhayashi/

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