紙のないトイレと野グソのテクニック
東海ラジオの朝の番組で、谷村新司さんが、野グソをしたときに、葉っぱで拭き取る話をしていた。
こういう話は私は得意な分野で、「ツルツルした葉では、拭き取れずに、広がるだけだ」という話で笑った。だが皆の集、この葉では当然拭き取れないことぐらいはだれでも分かる。ジャムの付いた口をツルツルの葉っぱで拭けば、口中ジャムだらけになる。これぐらいはだれにでも分かる。これは拭き取るのではなくて、抉(えぐ)り取る方法があることを忘れている。
葉っぱを丸めて、シュッと抉る。ここで一首、
※抉(えぐ)る技 パッと決めて 快(こころよ)し 野に咲く花の 肥やしとなるらん 泉峰 (また駄作な歌を)
さて、私は野グソの達人の域に達している、というと、マラソン仲間から叱られそうだ。だがしかし、ウルトラマラソンの仲間には、この達人がたくさんいる。昼夜通して走れば、当然出る物は出る。この秘伝を、伝授してくれる人がいない。これをひた隠しにして、門外不出にしている。要するに恥ずかしがって話そうとしないからだ。
長時間走るウルトラマラソンなどでは当然野グソは付き物だ。野グソが付いて回ると、尻がタダレる。そうなると尻を開いて走ることになる。擦れると痛いのォ。ただれたところに汗が染みこんでとても痛いのだ。ランナーならだれでも経験済みだ。
椎名誠の『喰寝呑泄(くねるのむだす)』に書いてあった。ニューギニアのトロブリアンド諸島では、葉っぱを丸めてシュッと一発で抉っちゃうんです。だから拭き取るのではないのだよ、谷村さん。
世界の人口の34%が紙を使うと書いてあった。ここでチョット驚いたねェ。では、66%は手その他ということになるんだろうか。その他に天日干しというのは、ないわなァ。
インドでは水で処理します。手水(ちょうず)鉢から水をすくい、尻を洗う。左手で、だから左手は不浄に手というわけだ。公衆トイレに慌てて飛び込み、用を済ますと紙がない。ゲッ!周りを見ても何もない、無い無いな~い!仕方がないので、ロール紙の芯で抉り取るかという決断を余儀なくされる。
その時ふと水洗を流しながら、水をすくい取り、尻を洗うことを思いついた。やって見ると意外やさわやかである。しかしその後食事時になると、不浄の手は右手であったことに気が付き、慌ててゴシゴシ洗うことになる。新しい方法を見つけたと、『鈍足ランナーの独りしゃべり』という私のエッセイ集で書いたら、そんなことワシもやっているという連絡が仲間から入った。みんな苦労しているんだ。
以来、不浄の手をいつも持参して飛び込む。紙なんてなくったて安心と飛び込むと、便器が相当の汚れているとチュウチョする。
最近、人心が乱れているのか、トイレの汚れがひどくなった。社員教育の行き届いた会社のトイレは、美しいという。ロシアを旅した椎名は、『ニタリノフの便座』で書いている。
してはならない場所に、糞が堆積しているのだという。それも航空機、空港、デパート、レストランすべてにおいて汚いという。これはロシアという国の人口の半分は密告者というぐらい圧政の中で生きてきた人民の恨みが、隠れた場所でうっ憤を晴らしているというすさまじいものだという。便器にせずに、回りにするんだという。
砂漠では砂で処理をする。あとは乾燥してカラカラになって風とともに飛んで行くという。
ランニング登山をやっていたときだ。山で野グソをした。清流の中に尻を沈めてやった時は、最高だった。野鳥の鳴き声と、清流のせせらぎを聞きながら、この清流を下の人類が生で飲んでいるかと思うと、ぞくぞくしたものだ。
要するに谷村さん、アナタのツルツルの葉っぱではふけないという説は、間違っています。抉るのです。
私も随分練習したので、手の負えないということはない。時々だが手に付くことがあるが。抉るんですよ。
フキの葉がいいというが、今だやったことがない。フキがうまい具合にその時のあればいいのだが。いつもフキの葉っぱを持って走るというわけにはいかないからです。「フキ=拭き」に通じるという説があるからです。
昔は竹べらで削るというのは、歴史が証明しています。これを「廁籌
(しちゅ)」といいます。これを一度辞書で調べてご覧なさい、用便後尻を拭く竹べらとある。これをいつもぶら下げていれば、洗って腰にぶら下げていれば乾燥する。だから何度でも使える。そのうちにいい色艶が出てくる。「オヤ!いい色していますね、何年物ですか?ヘッ、10年、これは年代物で、角が取れて、丸みを持って、恐れ入りました」という会話が、もうすぐ聞こえる時代が来ると思うよ。
資源の無駄使いがなくなる。今「マイ箸」運動が展開しているが、私はここで「マイべら」運動を展開しようと思う。
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