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2008年5月11日 (日)

カローラの製作者の死

トヨタ自動車の「長谷川龍雄」氏が亡くなった。パブリカやカローラの開発に携わった方だという。

面識も何もないが、パブリカを販売していた系列がカローラを販売することになった。昭和41年7月、愛知トヨタから系列のパブリカ愛豊(のちのカローラ愛豊)へ転勤になった。愛知トヨタに経理として入社したが、どうせするなら営業をしたいと志願した。その志願で配置転換となった。

大衆車の通産省が想定した「国民車」の性能は、

  1. 最高時速100km以上。
  2. 乗車定員4名、または2名と100kg以上の貨物が積めること。
  3. 平らな道路で、時速60kmのとき、1リットルの燃料で30km以上走れること。
  4. 大がかりな修理をしなくても、10万km以上走れること。
価格は月産2000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下でなければならない。
性能と価格から勘案されるエンジンの排気量は350~500cc、車重は400kg以下。

というものであった。

パブリカが売り出されたのが、1961年、ちょうど私が愛知トヨタに入社した年だった。38.9万円。千ドルカー、搭載されたのは697cc、空冷2気筒OHV・水平対向で28馬力を発する新開発のU型エンジンである。町中をパタパタと走り回った。

営業を始めた当時、この空冷対向エンジンは、冬に弱くてね。ラジエーターグリルに、段ボールや足元に敷くゴムマットを切ってマスクをした。こうしないと、オーバークールしてしまう。オーバーヒートなら知っている人は多いが。冷えすぎて、キャブレターが凍り付いてしまう。

夜の商談で真冬に田んぼの真ん中に止めた車が、凍り付いて動かなくなり、歩いて電話を借りに行ったものである。

1966年11月、念願のカローラが売り出された。これからしゃにむに売りに歩いた。当時は3C時代で、車、カラーテレビ、クーラーがもてはやされていたころだ。ほとんどの人が、初めて車を購入する人だった。

中には、木曽川の橋のたもとで、通る車の台数を調べたら、カローラが一番多かったので、カローラにするという人もいた。当時は大衆車として、ニッサンのサニーと猛烈な戦いをしていた。よくお客さんの所にサンプルとして、新車を見せに行く。そうすると必ず他社のセールスが後ろに付いてきた。それをうまくかわすのもまた仕事の内だった。

カローラ店は、一県に一社ではないから始末が悪い。愛知県は5社もあったから、向こうのカローラは性能が悪いという説明は、成り立たないからだ。相手がサニーなら、性能比較をして、売り込むチャンスをうかがえばいい。とにかく先手必勝であった。

とにかく初めて買うお客さんは、車の来るのがうれしくてね。神社に行って御祓いをする。方角を占ってもらって、その方角から納車するようにという指示が来る。疑い深いお客さんは、道筋に従業員を立たせて見張りを立てる。道を間違えようものなら、車をキャンセルされる恐れがあった。

今回は、この方角の神社へ納車するようにと、神社を指定してくることもあった。その神社で落ち合って、納車をする。ナンバーの指定もあった。登録する時に、登録係はそのナンバーになるように、待ち受ける。相当苦労してナンバーを確保したものだ。よくあったのは、42番49番を外すように指示が来た。縁起を担ぐ人が多かった。今は番号が指定できるからいいが、当時は書類が積んである順番で番号が決まった。

納車日は大安が多く、「友引」は縁起を担いで忌み嫌われた。「引くは人をひく」につながるから嫌われた。「先勝ち」は午前中に、「先負」は午後に納車をする。「仏滅」や「赤口」も避ける傾向が多かった。返ってそのほうが、納車を集中的にできたから都合もよかったが。

中には登録する日まで「大安」に指定された。当時は登録する台数を制限する時があったから、難儀な注文であった。そんな人に製造日の指定はいいですか、と逆にそんなことは無駄なことだと説得したものだ。

納車する時にはねェ、いろんな儀式がある。和尚が来てお経を上げる、神主が祝詞をあげる。多いのは、まず塩をタイヤ四本に掛けて、酒で車の周りを清める。あるいは開く所を全部セールスに開けさせてから、塩をまき、それで初めて車の説明に入る。

結婚の荷物に車を持って行く時は、紅白のテープと花でボンネットを飾り、先頭を走ったものだ。この地方は、嫁の荷物を公開する儀式が残っていたから、車があれば、鼻高々であった。

初めて車に乗る人が多かったから、試運転の助手をよくさせられた。免許証取立てがお客さん。これが怖くてねェ、田んぼの中を、ものすごい勢いで走り、急カーブを切るから、生きた心地はしなかった。サイドブレーキをギュッと握り締めて、ヘトヘトになって帰る。

ある時、同僚のセールスが、納車を手伝ってというから、付いていったら下取りが有るではないか。事情を聞くとこれからすぐに商談があるというから、仕方なく私が下取りを乗って帰ってきた。どうも車のガラスがススぶけていると思った。帰ってきたら、実は排気ガス自殺した車だという。

この当時は単車からの乗換えもあった。納車を手伝った先の下取りが、750ccの大型バイク。ワシ150ccぐらいしか乗ったことがない。同僚が新車の説明している間に、運転練習をして、帰りはなんとこれに二人乗りで30km帰ってきた。怖かった~っ。

自動車学校に免許を取れば車が欲しい。そんな下心で出入りしていた。出入りしている内に校長と仲良くなった。校長室へ入り込み、卒業名簿を丸写しして成績を稼いだ。この校長の息子が、三菱自動車というから笑ったね。

昭和43年ごろ、年末押し迫った夜、商談をしての帰り道。前を走る電気屋のトラックの荷台から、道路の段差でガタンと揺れた。その弾みで、荷台から何かが飛び出した。前の車の社名と電話番号を記録して、拾いに戻ったら、なんと黒いかばんの中から、現金で43万円ほど出てきた。さすが電気屋は集金の額も半端じゃなかった。当時の給料が3万~4万ぐらいだったからだ。

すぐの警察に届けた。落とした車も電話番号も分っているから、落とし主が飛んできた。見ると私と同じ年恰好で、子どもいる。お礼をといわれたが、断った。「金が欲しけりゃ、現金だけ抜き取って捨てるよ」と言ったが、「警察がこんな大金出てくるほうが不思議だ。キチンと礼をしなさい」と、言われてきたという。仕方がないので受け取った。

このことが、翌日の新聞に「正直セールスマン、現金を拾う」とデカデカと載った。お客さんから車業者から電話が鳴り響き、お蔭で美談話をして歩くことになり、揚げ句にセールスから焼肉をたかられて、結局お礼金は全て消えてなくなり、足が出た。でもこの余波で車も売れたし、本社重役からのお褒めも頂いた。だが懐は痛かった。

こんなころ、GEの室内クーラーや中国製の段通の販売までやらされた。特に車屋がなぜ段通なんか売らされたのだろう。中国への輸出で、物々交換で段通が入ってきたんだろうと笑った。

1966年4月に先に売り出されたサニーが1000ccで、カローラは11月に1100ccで売り出された。そこで「プラス100の余裕」というコマーシャルを流した。ところがその仕返しが、1970年サニー1200の発売で、「隣の車が小さく見えます」と、アヒルを背景に添えたコマーシャルが流れた。

カローラは当時1100ccで、サニー1200は馬力の強さで若者に人気を得た。ここでいう隣の車というのは、同クラスのカローラであることは言うまでもない。そこで今度はカローラが、新型車が出た時だったか、サニーの背景にいたアヒルが「大変だ大変だ」と騒ぐコマーシャルを流して一矢を報いた。当時はそういう猛烈な販売合戦のど真ん中に、私がいた。1_2

懐かしい話を思い出した。右は、当時新聞折込を自分でデザインして、会社に黙って流した。この手口は、当時だれもやってなくてねェ、あとで上司から社名を勝手に使ったといって叱られたが、最後は重役から面白い、ということで、費用を会社持ちにしてもらった。これで3台売れたからだ。なでんでもありの、楽しい時代だった

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コメント

高度成長期って楽しそうですよね。
私は団塊jrですが、なんか割食ったような気がします(笑)
できれば昭和18年くらいに産まれたかった。本気で。

投稿: ガイアー | 2009年12月29日 (火) 20時47分

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