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2008年6月22日 (日)

思い出のさくら道270kmウルトラマラソンの地を尋ねて、家族旅行

一宮をスタートして、北陸自動車道に乗る。郡上で降りて、郡上市内に入る。さくら道270kmウルトラマラソンの時は、名古屋を7時にスタートして、私がここにたどり着くころはもう23時ごろである。16時間掛かってたどり着いたが、車ではわずか1時間である。ありがたみに欠けるし、家族に苦労話を説明しても、説得力に欠ける。

ここで「喫茶チロル」の村井さんに会うためだ。さくら道270kmウルトラマラソンの郡上の美人エイドステーションをやって頂いた縁で、何度かチロルを訪れた。美人ママさんでねェ、しかもこの町の若手のリーダー格である。また世話焼きで、嫁の世話までするというから、息子の顔見世に行った。ワシも頼まにゃいなんからさァ。

顔を見るなり「ヒャ~独りしゃべりさんだ」と奇声を上げた。向かいに座るお客さんに、さくら道270kmウルトラマラソンの事情を説明し始めた。皆ここの人はこのウルトラマラソンのことをよく知っている。話はマラソンで盛り上がった。この後、この町のどこが見所かを聞くと、お客さんが、てんでに、あそこがいいとかここがいいとか話しかける。市内を散策してウナギを食べた。お勧めの城には家内が及び腰なので行かなかった。

郡上から156号を8kmほど北に行くと、大和町に「母情」が銘柄の平野醸造がある。この女将さんには、4月に岐阜市内で行われた「酒蔵の集い」で会ったばかりだ。このとき、五箇山に行くといったらぜひ家に寄れという。お言葉に甘えて店に寄ると、待ち構えていたかのように、迎えに来てくださった。

この女将さんは、郡上の女性全体のリーダーである。いま観光協会の理事でなかったかなァ。さくら道270kmウルトラマラソンとは関係はないが、「酒蔵の集い」で気が合いお付き合いをしている。とにかくここの女性は元気がいいし、美人が多い。今度嫁をもらうなら、絶対にここ郡上からもらいたい。誰がって?ワシじゃがやァ。仕方がないので、息子の嫁をチロルのママに頼んできたが。

女将は、冷蔵庫から冷えた酒をドンドン持ってきて、「運転は息子がPhoto するんだろう」と一方的に決めつけて、私に飲めという。家内とドンドン飲んだ。おチョコでは小さいので、ぐいのみで飲んだ。これから泊る五箇山の民宿に土産の酒を買った。もちろん自分の分も買った。

平野醸造が「鈍足ランナーの独りしゃべり」と知り合いだというので、ワシの名前を使ってランナーがずいぶん出入するらしい。輪が広がっていて、いいことだ。女将さんもいやな顔一つしないで迎えてくれるという。

いい酒を飲んだのに、息子の運転が怖くって、酔いが覚めてしまった。

懐かしい156号線を蛭ケ野に上り詰めると、分水嶺がある。ミズバショウは遅かったが、ここを散策して、500m先の「てぬきうどん」をやっていた売店の駐車場にでた。ここで多くのランナーにうどんを食べさせた思い出の地である。ドラム缶で火を焚いたせいで、アスファルトが溶けて、今でもケロイドのように丸い後を残していた。てぬきうどんの痕跡である。

平成13年、ここの売店の裏に住むという、福手豊丸翁に出会った。そして自叙伝『ひるがの』を頂いた。そこには昭和の始めにここに開拓団として入植して、今の蛭ケ野にした苦労話が書いてある。これに感動した私は、私の書いたエッセイ集『鈍足ランナーの独りしゃべり』を贈った。

ご存じない方が多いが、明治時代の末期のころ、この峠に郵便物交換所として一軒だけ中屋さんが住まってみえた。昭和17年に福手さんは移住され、この蛭ケ野を開拓して、今のようなスキー場やリゾート地にされた。本を頂いたときから、この人に会いたいと思いつめていた。やっとその機会ができた。

この福手さんのことを書いたエッセイがありますので、気になる方は、少し長いが読んで見て下さい。「14.doc」をダウンロード

ご老人は畑をやって見えた。耳が遠いから、孫娘さんの通訳でさくら道 270kmウルトラマラソンの話や、名古屋金沢を走るバスの運転手で、この名金線(156号)を桜のトンネルのしようと植樹し続けた佐藤良二さんに、随分桜の苗木の世話をされたという裏話を聞いた。腰がシャンとして、93歳とはとても思えなかった。

「アンタらがまだ走っているから、ワシもがんばらにゃ」と、93歳が笑っ93_2た。息子がこの気迫にのけぞっていた。いい出会いであった。記念写真を撮って、「また来ますので、いつまでもお元気で」「あんたもなァ」といって別れた。手を握ると、ガシッとした手ごたえは、長年ここを開拓した力強い手だった。この人にとってこの蛭ケ野は、自分の庭なんだろうなァ。開かれた蛭ケ野を眺めながら、ふとそう思った。

とっても新鮮な出会いであった。うれしかった。蛭ケ野の主に会えて感動した。

いまは「さくら道ネイチャーラン」が行われているが、この福手さんを忘れてはいかんぞ。佐藤良二さんの影の支援者ということが分かったからだ。この街道の桜の何割かは、この福手さんの支援になるものであったからだ。

荘川桜を改めに見ると、実に大きい。良くぞ育ったものだ。私のさくら道270kmウルトラマラソンのゴール154.7km地点である。

御母布ダムまで、いくつものトンネルが続く。今日は金曜日なので、車は仕事の車が多い。片側一車線で、対向車には大きなトラックがすれすれに突っ込んでくる。息子もビビッたが、乗せてもらっている私も縮んだ。

白川を過ぎると、下梨から急坂を登ると「相倉合掌造り集落」の大きな看板が出る。これ過ぎてしまうと、五箇山トンネルの3kmもする長いトンネルに入ってしまう。

五箇山で民宿をされてみえる友人の母親の在所「勇助」と従兄弟の「与茂四郎」さんを宿泊先として紹介してもらった。特に今日泊る「与茂四郎」さんは、「さくら道ネイチャーラン」のときに、障害者の宿泊の世話をして下さったという。奇遇というんだろうか、偶然にしては1出来過ぎている。

夕ご飯のときに、同宿の人も交えて、与茂四郎の奥さんに「ささら」や「こきりこ」の使い方を教えてもらいながら、静かな合掌造りの夜を迎えた。暗くなれば寝るしかない夜長を満喫した。

Photo_2 あまりにも早い就寝に、朝早く目が覚めた。起きて誰もいない村内を散策す4る。朝もやが少しかかっている。朝日が朝もやを押しのけながら上がってくる。

撮影ポイントが、すこし小高いところにあるというから、案内板に従った。なるほど村内が一望できる。すでに望遠カメラを構えている人がいた。この早朝に福井から来たという。もう少し待つと、陽が出る。そうするとカヤブキの屋根が光るという。

犬を連れた勇助の親父さんが登ってきた。朝この運動が体にいいという。山育ちが変なことを言うと思ったら、少し前まで町でカメラマンをして2いたという。この勇助がここで初めて民宿を手がけたという。このオヤジさんで2代目だという。民宿が8軒ある中で、ウチだけが本業でやっていて、後は兼業だという。昔修学旅行生200人を総出で泊めたことがあるという。いろんな話を聞かせてもらった。ニホンカモシカやイノシシが飛び出してくる。そうすると人懐っこいゴールデン・レトリバーが喜んで追いかけるという。ちょうどこのあたりによく出る、と山道を指差す。

朝食後に近くの資料館を見に行く。「夕べ、みやげの酒をありがという」と、勇助の奥さんが、資料館にいる私に、赤カブラやウドなどの漬物を届けてくださった。小さな村だ、本日この集落の宿泊者10人と分っているから、どこにいるか直ぐに知れる。なにか、みやげを強要したようで恐縮した。しかも与茂四郎からも、五箇山の一つ利賀村清流素麺と黒部の氷筍水も頂いてしまった。済みませんといいつつうれしかった。この心根が私の心を暖かくしてくれた。

昨日といい今日といい、ずいぶん心が洗われた。

みんなに別れを告げて、156号を金沢に向かった。道がアチコチ広くなり、昔の道がたどれなかった。東海北陸自動車道がこの7月に開通すると、観光客の流れが変わるだろうなァ。

さくら道270kmウルトラマラソンのゴール地点の金沢に入る。兼六公園、東尋坊をのぞいて、思い出の旅は終わった。後口のいいお茶を飲んだようで、さわやかな気分が体を包んでいる。

これから少しの間、この感触を味わえそうである。

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