御鍬祭りって
御鍬祭り大流行
文政10年(1827)秋、名古屋城下に接近する村々は、御鍬祭りで大賑わいとなった。御鍬祭りとは、伊勢神宮の御山に鍬形の榊が生えたのを豊年の予兆とし、祝い祭ったものである。『猿猴庵日記』(文政日記大略)によると、勢州(伊勢外宮)の御山が、村々に送る桑の木を鍬形にし、これを榊の枝を添えたものを神体としたという。この鍬神を神輿に納めて行列を催し、村から村へと伝えることで祭りを大きくした。文政10年は伊勢外宮の御師(おし=御祷師の略で、祈祷に従う身分の低い神職または社僧。伊勢神宮神職で、年末に暦や御祓を配り、また参詣者の案内や宿泊を業とした者。伊勢ではオンシという)が御鍬を配って関与し、その前の明和4年(1767)は、伊勢神宮別宮の伊雑宮の御師が祭りに関わっている。大流行には仕掛けがあったのだ。
しかし、背景の仕掛けとは関係なく、人々は祭りを通して豊年の世を楽しんだ。祭りの主役は仮装行列や大きな作り物。村の組ごとに様々な工夫がなされ、凝った演出が続々と登場した。費用も莫大で、奢った催しということで、西枇杷島、上小田井などが、役所から祭りを止められたり、庄屋が処分を受けたりしたとう。
また、尾張藩士、水野正信の『青窓紀聞八』によると、城下近くの村々が、祭りに金銭を費やす口実として「五穀豊穣の祭りゆへ、御鍬殿といへるは倹約お嫌い也」という理由を掲げ、「これを制する者あれば、災忽ち其身に及ぶ」として祭りを行おうとした。そうまでしても祭りをしたいという人々の意気込みは、『猿猴庵』の本から十分伝わってくる。
人々をこれだけ熱狂させた御鍬祭りは、“60年周期で流行する”と、考えられていた。実際、尾張で流行した御鍬祭りを見ると、元禄16年(1703)、明和4年(1767)、文政10年(1827)、
昭和22年(1947)であり、だいたい60年周期である。伊勢神宮の御師が、そろそろ御鍬祭りのお札を配りに来る頃だ、という認識が人々にあり、祭りに費やす時間も十分にあったのだろう。本書を見ると、この祭りに現れた巨大な作り物、仮装の数々に圧倒されてしまう。60年という長い年月を隔てて、蓄積された人々のエネルギーが、祭り開催によって爆発したような感覚を覚える。
『猿猴庵 御鍬祭真景図略一』解説 武藤真 より
ゴメン、いま風邪引いてしまって、書き置いたアンチョコから。
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コメント
上原定雄です(神戸在)
病院のパソコンよりメールしています。
病院へはパソコン持ち込みできませんでした。
11月10日より入院し各種検査し手術するか検討期間中です、検討期間が少し長い気がしますがいまさら文句も言えません。
先生は手術に消極的です、68歳であること、狭心症を患ったことがる事、等等です。
私の目的は再びテニス、ゴルフが出來るようになる事でしたが今では「普通に歩けるようになる事」と目標レベルを落としました。
先生とはこれからも協議を重ねますがさてどうなることやら。何れにしましても今後の方針は今週中に決めます。
私の目の前は暗雲が垂れ始めています。
病院のパソコンで後ろに人が待っていますので手を置きます。
投稿: | 2008年11月20日 (木) 14時51分