江戸前のマグロは、下魚(げさかな)扱いされていた
『娯楽の江戸・江戸の食生活』三田村鳶魚著(中央公論)
マグロのような赤身の魚は、江戸時代では、下魚扱いされていた。天保3年(1832)の春先この下魚の大きなのが、潮流の関係か何か、江戸近海でひどく獲れて、河岸の相場は下落するし、始末に困ったことがある。大部分は肥料にしてしまうのだが、それでもさばききれず、困りきっている時、知恵者が1人あらわれる。捨て値のマグロの、脂の乗り切ったいいところだけ身をそいで握り鮨をこしらえた、売りに出したら、安いし旨いし、馬鹿当たりに当たって、以来マグロが江戸前の鮨に欠かせない種になったという。そろそろ幕末も近く、握り鮨の元祖開業の時期が、それより10~20年まえの文化文政のころ。すし自体千年を越す歴史から較べると、握り鮨はずいぶん新しい。
『嬉遊笑覧』喜多村筠庭著にも出ている。
すしのことは、『枕草子』に、「名おそろしきもの、いにすし。それも名のみならず、見るもおそろし」とあるは海胆(うに)なるべし。平安時代は「うに」は恐ろしきものだったのか。
「ほやのつまのいすし」いえる、いずしなり。貽貝(=いがい・二枚貝の一種)を材料にし。貽貝の肉を押して貯蔵し、酸味が生じてから食べる。
昔のすしは、飯を腐らしたるものにて、近江の源五郎鮒のごとし。
宝暦(1751年)のころ売りすしが出始めた。「丸い桶のうすきに古き笠の紙を蓋にして、幾つも重ねて鯵のすし、鯛のすしをて売り歩きしは、数日漬け込みたる古すし也」
先日飛び込んだ回転すし、入ってから気が付いた。値段を示す回転すし独特の、値段皿の表示がない。恐る恐る食べた。ビール中ビン1本と7皿で3300円取られた。どうも入るときの店構えが奇麗過ぎた。これで2~3日外食禁止だ。(トホホッ)
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