明智光秀は生き延びた
「時は今なり、敵は本能寺にあり」
明智光秀が本能寺へ、信長に謀反を起したときのことである。ところがこんな記述がある。
『元禄お畳奉行の日記』神坂次郎著の中に、明智光秀生存説がP180にその記載がある。
ーー「濃州斉藤村の斉藤寺の住持(=住職)、不立、去る頃、所追放にあひ、公儀へ訴訟有之に付、当地へ罷り越すという云々。斉藤寺の前住は明智光秀の弟也。光秀、山崎合戦にて死すること偽り也。後に斉藤村の百姓の躰に成り、子は荒福又五郎という。又五郎の子、今の住持也とい云々。信長及び太閤秀吉より光秀への書、ならびに吉光の太刀、貞宗の小脇差など、今に不立所持と云々」ーー
岐阜県山県市に、こんなホームページがあった。
明智光秀公の墓・行徳岩(ぎょうとくいわ)
光秀公は山崎の合戦で死んだのではなく、実は、そのとき死んだのは影武者であり、ひそかに郷里山県市中洞に落ち延びて荒深小五郎の名ですんでいた・・・そんな伝説が残るのが、ここ「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀公の墓です。ここでは、今でも毎年供養祭が行われています。
また、近くの河原には、母が「たとえ三日でも天下をとる子を・・・」と祈ったとされる行徳岩もあります。
一宮から40kmほど北に当たる。一度自転車で出かけるのもいいな。
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