「味覚」について考えた
自分が言うのは変だが、私は味音痴だでねェ。まったく音痴というわけでもないが、味覚感覚に生まれて以来、多少難点があるんではないかと思っている。音の出るミュージックは自分でもすごいと思うぐらい、音程がしっかりしていて声がいい。一度死ぬまでにNHKの招待されたいものだ。
車屋時代にいろんなデーラーに招待されて旅行にいった。必ずカラオケ大会があり、ここで賞を取っていた。(誰も知らないから、言えるのだが)
話を戻すが、雑食性で何でも食べる。生臭いものでも平気で、結婚して家内の在所に行ったとき、家内の兄貴というのが、私と同じ年で、兄貴は以前料理屋で働いたこともあり、料理上手。
ある時、「川のものは食べられるか」と聞くので、「ウナギコイフナドジョウナマズなど、何 でも来い」と返答した。以来私がいくと、鯉こく、ドジョウが定番になり、来る日も来る日もこれが登場する。ドジョウ汁なんか、ドジョウが多すぎて、汁をドジョウが飲んでしまい、ドジョウの煮付け状態。それも図太い田舎ドジョウ。茶碗から尾かしらが出る。それを滞在中、朝からもさもさ食べていた。それでもなんとも無かった。寝るとねェ、目の中にドジョウがうごめいていた。
味音痴なんだろうか。そういえば、「あんたはうまいとかまずいとか、反応が無いからつまらん」と言われている。本を読んでいて、命を掛けても味を守るという話がある。
命より味が大事
開高健のベトナムの奇談を阿川弘之に語っている。
米軍将校と夜間共同作戦中の南ベトナム軍の兵隊が、腰に携帯食料の生きた鶏をぶら下げて行進している。そいつが時々コケッコココと鳴き立てる。ベトコンが聞きつけて、闇の中からいつ機銃掃射を浴びせてくるか分からず、危なくてしょうが無い。せめて絞め殺して持ち歩いてくれと言うのに、ベトナム兵が頑として首を横に振るそうだ。「味が落ちる」って。
味よりコーラン
阿川弘之著『食味風々録』より
戒の厳しいブルネイでは、牛や羊、鶏の頭を聖地メッカの向けて、アラーの神に祈りを捧げつつ、頚動脈を断ち切る宗教的儀礼を行う。こうして血を出し終わった獣肉だけが回教徒の食べていい獣肉。味のよしあしより、コーランに示された禁忌事項を守るほうが大事なんです。
こんな厄介な手間をかけてお払いした牛肉が旨いはずがない。だから現地の日本人なんかはすき焼きを諦めている。
アハッ、色々あるなァ。感心するだけで、反応はしない。音痴だから。
そういえば、味覚は臭覚と微妙な関係がある。私の知人の妹が臭覚機能が無く、しょう油とソースの聞き分けができないという。そういえば匂いに敏感なやつは、味にもうるさいのが多いから。私も臭覚に欠陥があるのかも。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント