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2009年10月16日 (金)

徳川宗春と成瀬隼人正太を求めて、犬山城へ登城する

このごろ気になっていることがある。妙興寺の南にある「総門」の説明書きである。

『妙興寺散歩』では、--この総門が伊勢湾台風で倒壊したとき、延享3年(1746)の棟札が発見さ2 れた。それによると尾張徳川家筆頭の付家老である犬山城主五代の成瀬隼人正太は、八代藩主徳川宗勝から、邸宅をいただき、これを総門建立の材料として寄進した。--

とある。

ところが門前の案内板には、--宗勝から、隣接する屋敷を拝領し、両屋敷を一つにしたために、使わなくなった門を寄進した。--

この微妙な言い回しが、気になって仕方がない。私が「案内パンフレットにない妙興寺の歴史」というのを、妙興寺から頂いた『妙興寺散歩』などから、面白話を引き出して書いたことがある。これを今ご開帳中の仏殿の管理人に説明の手助けに書いたら、隣接する博物館の係員がコピーをして持ち帰ったという。なにかの説明の役に立てばという思いからだ。

私は総門のことをこう解釈した。「隣接する徳川宗勝から屋敷をいただき」と書いた。これにすぐ反応したのが、郷土史家で走友のマイタウンさんである。「殿は城の中にいるので、成瀬と同じの城外には住んでいない」という。なるほど確かに徳川宗勝は尾張八代藩主である。謎はまだある。

  • 当時の屋敷図を見ると、隣接するのは、次席家老竹腰志摩守と成瀬大内蔵(成瀬隼人正太と統一人物か?)である。ならば隣接する屋敷がどこなのか。これが分からん。それともこの地図の時代が違うんであろうか。
  • ちょうどこんなころの尾張藩主は、七代徳川宗春である。このころあの暴れん坊将軍の徳川吉宗が将軍で、享保の倹約令を出し、財政立て直しを計ってる最中である。これに逆らうように、宗春は歌舞音曲やりたい放題。締めすぎる倹約令はかえって民衆が苦しむとばかりに、芝居小屋、遊郭、飲食店、盆踊りを盛大にやってのけた。これが吉宗のカンにさわり、元文四年(1739)に謹慎、蟄居を命じられ、幽閉されてしまう。
  • 宗春のあとを継いだのが、宗勝であるから、城に入るなら屋敷は要らない。だが、宗勝が城下の住んでいたという証がない。(要するに調べるすべを知らないだけ。こう書いておくと、郷土史家からまたお知らせがあるだろうと期待する)
  • もし城下に住んでいなかったら、誰の屋敷を与えたか。
  • 竹腰は、宗春は謹慎したときに、高齢のため隠居している。

この総門を見るにつけ、頭を傾げるのである。そんなことを色々パソコンで調べていたら、犬山城白帝文庫歴史文化館編集の『研究紀要第二号』のなかに、「成瀬正太と徳川宗春」が掲載されていることを知った。これがどうしても読んでみたくなり、犬山城下の歴史史料館へ出かけたというわけだ。現在の館長は、成瀬家のお姫様がなされている。一度一宮のイベントでお会いしたときに、二人で記念写真に納まった。恐れ多いことだったが。

1000円で仕入れ、さっそく読んだ。ところが、宗春の資料というのは、どうも謹慎を機会に意識的に処分された形跡があり、なかなかはっきりしない。憶測されながら書かれてあったのが、

  • その謹慎へ働いたのが、筆頭付け家老の成瀬正太と次席家老竹腰正武であるといわれている。宗春が跡目を継い時三十六歳で、成瀬の年は二十九歳と若く、竹腰は五十六歳という老齢である。幕府の裏で動き回ったのが、竹腰で、宗春をいさめる役が成瀬であってであろうと推測される。
  • 付け家老の役目は、藩の大勢を適切な方向に進めることが役割とされ、万一、藩主が、幕府のためにならない場合は、これを諌め、それでも聞かないときは、「屍をもって諌めるべき事」ともいわれた。『尾張藩公法史の研究』林勲一著
  • 事実、吉宗の死後、宝暦年間に成瀬正太は頻繁に幽閉されている宗春へ、季節の干鯛、焼鮎、蒟蒻、マッタケ、塩鱒などを「内々進上」をしていることが、『正泰公御伝』に書かれている。これは成瀬が宗春への晩年の至るまで、尊敬と親愛の気持ちを残していたと思われる。

でも、総門を貰う理由はないが、まったくの憶測だが、幕府の尾張藩お目付け役である、付家老成瀬への配慮であったであろう。この後は藩内で成瀬の権威は向上していった。吉宗もこの成瀬への特別目をかけていたのPhotoは、家康以来の忠臣であるからだ。

成瀬は三河の足助の山の中に成瀬郷というのがある。近くに成瀬城跡もある。ここには成瀬の氏名が多く、成瀬神社というのもある。 家康が松平であるころから、一緒に転戦をして武功を立て、ともに生き抜いてきた忠臣だからである。成瀬の姓はここから始まった。

久しぶりに少し勉強させてもらった。これで妙興寺の総門の説明に、すこしはハクがつくかなァ?。 

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