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2009年11月 1日 (日)

なんと、私のブログを読んで妙興寺へ

最近は毎日妙興寺へ行く。先日管理人と隣の博物館の学芸員と石段に座って話し込んでいた。いま博物館では、「牧進日本画展」が行われていて、たいへんな人気である。その前後にここに来る人が多い。博物館と妙興寺の仏殿ご開帳とは連動している。相互に来た人を、博物館や妙興寺へ誘導する暗黙の協定を結んでいるようだ。

ご婦人が、木の茂みの中に黄色の実をつけた木があるがという。一緒に見に行くと、クゴガネモチの葉をしてるし、実の付き方も同じなので、おそらくクロガネモチの色違いだろうと話した。

ついでに山門の造りが、普通は真ん中が扉で両側は、板囲いがあり、その中には阿吽や仁王の像が入ったりす078 るが、それがない。しかも欄間(透かし彫り)の部分が、両面彫ってあるものもあっるが、何も彫っていないものもあるという、中途半端な作りになっている。これは明治23年の火災と翌年の濃尾大震災で、連続して災難に遭い、壊滅的に諸堂倒壊焼失してしまったからだ。それから43年経った昭和9年にやっと現在の形に再建された。だからこの山門の中途半端な形は、ここで資金が枯渇した証拠である。

総門が成瀬隼人正太がここに寄贈したいきさつの裏に、徳川幕府の将軍徳川吉宗と尾張 藩藩主徳川宗春との確執を話す。

仏殿の南西にある歌碑に「親のなき 子等をともない この荒海を 渡り帰らん この荒海を」とある。この妙興寺の18世老師・河野宗寛老師が、満州から孤児300人を連れて帰った歌日記であると話す。

1このご婦人の大変歴史に造詣が深そうだ。なんか恥をかきそうな雰囲気を感じながら、「柳生無刀取り発祥に地」であり、始めはオニギリから始まったことや、武道家がオニギリでは都合が悪かろうと、後年話をすり替えて記録を残している。など、ここのパンフレットにない話を2_4してあげた。

この方に、こんな話をしてあげたら、ご婦人が、「この話は、誰かのブログで読んで、興味を持 ったのでここにきた」というではないか。なんと、私のブログを読んでこられたとは驚いた。学芸員とご婦人に名刺を渡し、河野宗寛老師の満州孤児を連れ帰る『慈眼堂歌日記』に感動して、ブログで2005年7月に「すごい和尚がいた」を7回連載したことを紹介した。

ご婦人はこの本が読みたいというので、豊島図書館に道筋を教えて分かれる。

大体毎日の日課で、マウンテンバイクで9時から11時ごろまで約30km走り、この妙興寺へ来る。そして仏殿の管理人と石段に座り込んで、なんでもない話をして、森の芳香を嗅ぎ取る。時にはオオルリやオナガニ会える。都合がよければ、説明ぐらい差し上げてもいいが、知らないことは知らないと言ういい加減な説明だぜ。会いたい方は、午前11時過ぎに顔を出せば会えるかもよ。

妙興寺のパンフレットにない、面白話だから、多少嘘こいてもいいと思っている。中には珍説もあるかもよ。

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