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2010年4月27日 (火)

美濃路街道を通る大名行列

土曜日に、地元の情報誌の取材があり、サイクリストと近隣のコース紹介と、サイクリングに必要な装備、マナーの写真撮影をしてきた。

同行したのは、サイクルショップのお上さん・トライアスリート2人・バイクで山を走るヒルクライマー1人、鈍足ランナーの私が一人というアンバランスな組み合わせ。なんとも強烈な人ばかりなので、オレより先に行くなと宣言して走った。

せっかく美濃路街道の勉強してきたので、同行の人らにそれとなく話す。

大名行列はどのくらいのスピードであったか。昔の旅人は、男で一日10里、女・子供・老人で8里という。さて大名行列はというと、女子供と同じぐらいのスピードであったらしい。

島津藩が海路や陸路で、約一カ月で江戸に入っている。加賀藩のように100万石の大大名になると、総勢3000人を越える行列となり、紀州藩などは5000人だったという。ゆっくり進むと金がかかって仕方がない。そこで先をドンドン急いだらしい。

宿場では前もって役所から庄屋に通達が来る。街並みを掃除しなさい、当日は煙などを出さないようにとか色々制約があったらしい。泊まるとなると、3000人の宿泊をどうするか。近隣の寺を50ぐらい借り、大きな屋敷も50ぐらい借りる。その宿泊の近くの村から、フトン・鍋釜・箸・茶碗を借り受けたという記録が、『稲沢市史・稲沢の街道・美濃路』にある。

天保4年(1833)の「紀州様御参府御用留」の「夜具諸色御触当割符帳」にこう書いてある。

  • 奥村 日光膳30人前・黒椀30人前・飯次6ッ、杓子共・屏風4双、ただし6ツ折・風呂桶6本
  • 蓮池村 夜着8ツ・日光膳10・蒲団9ツ・黒椀10・飯次2ツ・風呂桶1本
  • 中野村 夜着9ツ・蒲団14

このように大名などの宿場ともなると宿のものだけでは足りなくて、日常生活のこまごまとしたものまで助郷の村に割り当てておった。夜着574・蒲団990・屏風36双・風呂桶45本・日光膳350人前・黒椀350人前・飯次70(杓子共)・行灯40・燭台10本・薄縁240枚・・・・尾西市史より

ところが文久2年(1862)の幕政改革により、大大名は3年に一度1年在府、その他は3年に一度百日在府、妻子の江戸・国元居住は自由とした。幕府に参勤交代を強制する力がなくなり、参勤交代制はここに事実上廃止された。

この参勤交代で、近隣が迷惑ではなく、金儲けになるからうまく生きていたんだろうな。ところが大名にとっては金が掛かって仕方がないので先を急いだという。もともと参勤交代の意味がそこにあるからなんだろう。

あの行列の「下に~下に~」でも、大大名は3回、中ぐらいが2回、こまかい大名は1回だったらしい。面白いなこんなことをすぐに検索できるから。

それを思い浮かべながら、この街道を走るのも面白い。

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