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2010年4月28日 (水)

もらい風呂

朝ドラで「ゲゲゲの女房」が放映されている。

この中で「もらい風呂」という言葉を聞いて思い出した。昭和20年3月12日の名古屋の大空襲で焼け出され、リヤカーに家財を積んで、6歳の長女、4歳の次女、2歳の私、生まれたばかりに3女を連れて、お袋の在所の稲沢へ疎開をした。枇杷島では逃げてくる人たちにために、炊き出しをしていただいたという。

昭和21年に一宮に移住して、家を新築して新しい生活が始まった。オヤジは戦前から車の作業服を製造していて、それなりに商売もうまくいっていた。商売上、電話も早くから設置していた。この電話というのが、近所にはほとんど無くなくて、近所の人が自分の名刺に、我が家の電話番号を名刺に、(呼)と入れて、商売をしている人が多かった。だから他人の電話がしょっちゅう掛かってきて、その度に「電話です」と呼びに行っていた。これが、「呼び電話」である。

そのころの電話は、しょっちゅう混線してね、話中に他の人の話し声が聞こえてくる。そんなときは、「話中、話中」と叫んだものだ。

新築した我が家に檜風呂ができた。ハイカラな四角い風呂でねェ。途中に階段が付いていて、風呂釜の燃料には、マキや石炭やオガライトという、おがくずを円筒形に固めたものであった。煙突からはいつも火の粉が上がっていた。

石炭を焚くと、ススがひどくってねェ、ときどき屋根に登って、煙突掃除をやらされた。竹を長く細く裂き、その先にブラシが付いているもの、それが買えないので、布ッ切れを袋状にして、その中に石を入れて、煙突の中を上げ下げしたものだ。そうすると、周り中がススだらけになった。

一度お袋が風呂釜に火を入れたら、ニシキヘビがドサッと落ちてきたことがある。煙突に巻きついたヘビが熱さのために、落ちてきた。それでお袋が腰を抜かしたことがあった。ヘビも飛んだ災難だっただろう。

戦後間もないころで、焼け出された人が多く、風呂があるという家は少なかった。皆掘っ立て小屋というかバラックであった。だからPhoto銭湯に行くか、「もらい風呂」である。「もらい風呂」とは、他人の風呂を借りることである。私の隣は大家族で、風呂が炊き上がると、呼びに行った。

お袋は、「大勢で入られると、風呂が汚れるから、先に入れ」という。だから子供らがワッと入ったものだ。

お袋がその当時のことをこう言った。もう風呂水が白く濁った風呂にいつも入っていたと言った。「ゲゲゲの女房」が、新婚家庭の風呂に、無神経に入りに来る親戚に、仰天した姿に、当時のお袋を思い出した。

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