宗教問題に首をつっこんだ
大変難しい問題に直面した。
一宮の妙興寺という禅道場がある。私の好きな場所である。ここの稲垣老師から頂いた『禅の心』狭間葬儀著を読んでいる。その中にこんな言葉がある。
ーーー同じ宗教の中で、キリスト教と仏教の相違はなにか。
キリスト教は絶対者を自己の外にありとし、仏教は内にありというのが相違です。キリスト教では、人間を造り万物を支配している絶対者を神と呼びます。イエスキリストは、この神と人間とを結ぶパイプである。故にキリストを信じよ、人はキリストを通じてのみ神を知ることが出来る。
仏教では有限の人間そのままで、それ自体に中に絶対無限の絶対者を見出すためには、脚下を看ることが大事なことになる。即ち、反省し主体性を見出していくことである。
キリストや回教は神か人間以外の存在を作り、そして人間を支配して、悪いことをすると罰を与える。これが西洋的な神様。
仏教は仏さんがおりますが、それは修行いたしまして悟りを開いた人を仏という。迷いの糸が解けた人。
だから死んでから仏というのは、意味が違う。ーーー
私は宗教心が全くない。ただ、人の宗教までとやかくはいわない。皆な自由だからだ。
「罰」という言葉がある。これは、神仏のこらしめとしての、悪事に対する報い、とある。さてここだ、ある寺の行事にいた友人に、私が不謹慎な発言をしたら、「罰が当たる」といわれた。そこで私がこういった。「信心もしていない神仏から、どうして罰が当たる?」をいい返した。ついでにもう一つ、「アラーの神から、あんたが罰を受けるか?」をいったら、周りの人が皆、こんな意見をはじめて聞いたと笑った。
「罰」を漢和辞典で引いてご覧。「刀」と「詈(しかる・ののしる)」からなり、刀でおどしながらしかる、とがめる意を表す。意味は、
- とがめる
- つみする
- むちうつ・法を犯した罪を正す・罪を犯したつぐないの金を出させる
どこに神仏の神々しさがあるのだろうか。日本は平和だ。世界では宗教の対立から戦争を絶えず繰り返している。大体一神教に凝り固まっている国が戦争を起している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム(マホメット)教の三教の神は、もともと同一人物である。ユダヤ教から一世紀にキリスト教ができ、七世紀にイスラム教ができた。間違えるといけないので、下記のホームページをくっ付ける。http://160.29.86.21/religion/islam.htm
私は人道の外れるようなことはしていないし、かえって善良なほうだ。
だがこんな宗教心がない私が、どうしたことか、この妙興寺が好きでねェ。ほとんど毎日出かけている。一宮でこんな森はない。参拝者がいると、頼まれもしないのに歴史の説明をしている。歴史は事実だからだ。
ここの雲水さんらと顔なじみなっている。仏殿の管理人、隣の市の博物館の人ら、この寺にギターや尺八の練習に来る人らとは、もう仲間だ。
でも、老師の言葉には重みがある。仏とは死んだ人のことではないことを知った。
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