熊沢天皇の墓
名前は聞いたが何者かは知らない。真実はもちろん知らないから少し調べてみた。
『ウィキペディアーより』
―――熊沢寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」たちの代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。
右の写真は熊野宮信雅御塋墓とある。
熊沢の主張は以下の通りである。熊沢家は、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際、西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家で熊野宮の「熊」と奥州の地名・沢邑の「沢」をとって熊沢姓を名乗ったとある。彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている。―――
そこで検索を繰り返していると、「熊沢天皇は……」という質問の回答に、実によく分かる回答が書かれてあったのでお借りします。
―――asonkodai2199さんより
熊沢寛道(熊沢天皇)が突然に「自分の家系が真の天皇家である」と言い出した訳ではなく、養父・熊沢大然(ひろしか)の影響によるものです。大然は1908年に、「自分が南朝の正統である」と明治天皇に上申、南朝直系(後亀山天皇→良泰親王の系統)として認められた勅栽を受けている。「ゆえにお前(寛道)は南朝の血を受け継ぐ真の天皇」と教え込みました。
戦後、彼はGHQに自分が正統な天皇であるので地位を返すようの嘆願書を送り、それが雑誌「ライフ」の記者の目に止まりました。翌1946年1月19日、駐日米軍向け新聞「ザ・スターズ・アンド・ストライプス」の記事が朝日新聞に紹介されたことから、熊沢寛道は「熊沢天皇」として知られるようになりました。
GHQは当初「熊沢天皇」に肩入れしていますが、その理由としては、当時「天皇制」の扱いに悩んでいたマッカーサーがこの嘆願書に目をつけ、「熊沢天皇」を利用して「昭和天皇」の存在を揺さぶり、国民の様子を見てみようと考えたといわれます。ただ、昭和天皇の存在感を再認識したマッカーサーは、日本統治に昭和天皇が必要不可欠と判断し、熊沢天皇の役目は終わったとして見放しました。結局、熊沢天皇はマッカーサーに利用されるだけされて、ポイ捨てされたということになります。
「熊沢天皇」はあくまで自称であり、南朝の末裔である確たる証拠はないと思います。現に熊沢家の宗家争いも起きており、「寛道は本家でない。自分が本当の天皇である」と主張して、4人の熊沢天皇が出現していますから。その一人である熊沢信彦は詐欺罪・脱税で逮捕されています。このことからもかなり眉唾ものだと思いますが。
追記
ザ・スターズ・アンド・ストライプスの記事には「熊沢寛道こそ、正統な天皇ではないか」ということが掲載されていますが、これは5人の記者にGHQの将校が同行し、長時間に及ぶ取材を行った(詳細な調査もせず)ものといわれています。この記事によって熊沢寛道は「熊沢天皇」して世間に知られるようになったといいます。寛道はGHQの支援を受けて、全国で公演を開いていますので、マッカサーは国民の反応をみて天皇制の存続の有無を考えていたのではないでしょうか。しかし、案に相違して昭和天皇の全国巡幸の盛況ぶりをみて、日本にとって昭和天皇の存在が大きいことを思い知り、熊沢天皇を見放したということでしょうか。―――
なるほど、やっと理解しましたが、真偽のほどは分かりません。
このとき自称天皇がたくさんいた。
南朝系・・・・・・13人
安徳天皇の末裔・・・・・・3人
高倉天皇の末裔・・・・・・1人
順徳天皇の末裔・・・・・・1人
霊元天皇の末裔・・・・・・1人
今日その墓に行ってきた。というより、通りかかった時にふと思い出した。たしかに墓地は熊沢姓が多いし、この地区一帯が熊沢姓が多い。ちょうど墓掃除に来ているお婆さんが話しかけてきた。
「あんた歴史に詳しいかね」
ちょうど熊沢天皇の碑を写真に収めていた時だった。
「私はなァ、熊沢でなァ、菊花紋を付けている」と、わざわざ自分の家の墓石を見せてくれた。盛んに菊の紋を連呼する。
「元はねェ、菊水を使っていたが、戦後から菊花紋を使っている」という。なるほど、この熊沢の墓地はそこいら中に散らばっていたものを、一か所に集めて、それを近年に囲っただけの様だ。しかも一番古い墓が天保年間であった。この時は熊沢の歴史なんて知らないから、フ~ンとうなずいただけだった。でもついぞ天皇とは言わなかった。(ひょっとして、言えなかったのかもしれない)
改めてよく見ると、菊水を使っている熊沢の墓もある。調べた後から考えると、恥じて菊水を使い続けている熊沢家もあるようだ。しかも熊沢家の菊花紋はすべて近年に掘り入れたものと分かる。
あまり長いので、削減しようと思ったが、なにせ知識がないので削りようがなかった。
南北朝にまで行ってしまったので、今回は借り物が多くなってしまった。ゴメン。
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