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2012年6月15日 (金)

戦後間もない、町内の備忘録に取りつかれた その三

町内の二組の規約も決まり、戦後の二組の活動が見えてきた。

昭和23年には、出産のお着料二軒と結婚一軒の祝儀、香典一軒が初めて支給された。

ここには21年から25年までの配給一覧表が書いてある。21年は8月、10月、11月。22年は8月、11月。23年は2月、9月。24年は3月、6月、9月、10月。25年には1月……。
不規則な配給が記載してある。配給品の初めは、中袋とタイヤである。ここで中袋とは、福袋ではなく、チューブと読むのだと途中で気が付いた。この当時はよくチューブとタイヤが支給されていた。今ならサイズが気になるが、この当時はすべての自転車は同一規格でしかなかったんだろうと思わざる得ない。ある月は、二組組員13軒にタイヤ2本、チュ-ブ1本。これを配分表から順番に配給していく。

あの当時、子供でも大人の自転車を「三角乗り」といって、サドルに座れないから、サドルの下のフレームの三角部分に足を突っ込んで器用に乗り回していた。

昭和24年3月。六・三制起債裏付貯金ができて、町内に市役所から2万円の割り当てが来ていた。それを組に配分して、組では個人のできる範囲で募集をかけ、不足分は資産家が払っていた。これが学校の6・3制が始まり、私たち姉弟は、13年、15年、17年だから、この制度で入学できた。こんな公の件まで、行政から町内への依頼が公然と行われていた。

昭和24年4月には、配給も家族の人数に応じて支給されていた。支給品は、綿布28枚、タオル3枚、湯上りタオル10枚がきていた。この当時第二組は13軒で、町民の人口は68人であった。現在は10軒24人(?)である。「?」のところは個人情報の関係で不明である。7人家族が2軒、6人家族が1軒、5人家族が4軒と大所帯である。

税金の集金も町内がやっていた。この当時、自転車税1台260円、荷車税195円、犬税390円が記載してある。一軒だけ金融税を払っている資産家があった。今のなんにでもかかる掛かる消費税よりはまだいいかも。しかも一宮市愛市公債予約申込額の記載が出てきた。これも各組に割り当てがあり、不足分を資産家が払っていた。

この当時、治安が悪いので犬はどこの家でも飼っていたと思っていら、組のど真ん中に住んでいるわが家だけが犬税を支払っていただけだった。ということは他は犬税を逃れていたと思われる。今頃脱税を見つけしまった。

市民税扶養親族申告書を出している。その控えには、家族人員・扶養人員・稼働人員・職業まで町内が調べて申告している。

24年9月4日午後8時より第二組集合せられたり。本日放出物資ランニングシャツ8枚、丸首シャツ14枚の割当購入票を、ランニングシャツは家族人数が大なる者より配分を決したるも、1名棄権の申し出ありに依り、次の人数多き者より八名に配分することに決す。丸首シャツは全員に1枚配分した。

25年9月を最後に、配給の記載が無くなった。たかがシャツ1枚といえども、真剣だったことを窺わせる。

このころから、近所の付き合いを大事にしていたことが書き記されている。

次回は最終回その四です。

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