戦後間もない、町内の備忘録に取りつかれた その四
戦後のドタバタが少し落ち着いたのか、慣れたのか、ボチボチ町内の意思の疎通を考えてなのか、一番原始的であるが、車座になって飲みながら話し合う機会を作ろうということになったのだろう。二組の組織ができ、配給も順当に進む中、備忘録に新年宴会の記載が出てきた。
26年1月3日夜 組の新年宴会をT様方にて開くこと
会費300円、砂糖、米は持ちよりのこと決議す
なにかホッとする呼びかけだ。でも、砂糖と米持参は驚いた。
昭和25年3月ごろから、物資配給の記載が無くなってきた。米穀通帳は昭和56年6月11日に廃止になるまで続いた。昭和35年代には米の配給制そのものは無くなったものの、食管制度上の規定では米屋から米を購入するときには米穀通帳は必要であった。確かこの当時は小学校の修学旅行でも、米持参で行った覚えがある。私が小学校6年の時は、昭和29年である。
「旅行などで旅館に宿泊し米飯の提供を受ける際などは、現物を持参するか旅行者用穀類購入通帳を持参しなければならない。(ウィキペディア参考)
さて当日の料理は、「引きずり(すき焼き)」である。
かしわ 1090円 一貫目340匁
米 280円 2升
玉ねぎ 140円 2貫目
ビール 365円 3本
酒 1550円 上酒3本
さと、菓子 50円 さと1斤
焼きフ 50円
糸こんにゃく 130円 50匁
漬物 105円 上粕漬け
茶 130円 抹茶100円・麦茶30円
みょうが 30円
たまり 100円
木炭 130円 燃料はいるからねェ
雑費 200円
合計 4,677円 以上
物価の比較は昭和25年と現在までは、約8倍と見た方がいい。酒なんかは今に比較すると一本4000円にもなる。酒は嗜好品で高いとは思う。でもいくら上酒でも高すぎる。この時は資産家から900円の寄付があった。この当時は毎回、一級酒一升、ビール10本という寄付が記載されている。
気になるのは毎回、抹茶とかお茶、果物、菓子、柿、羊かん、の記載がある。誰か飲まない人がいたんだろうか。ヒョットして私のオヤジではなかったか。胃の悪かったオヤジは何度も手術をしていたから。
こんな宴会は、新年会、月見の会が常会だった。27年5月にはトーフ焼き晩餐会が突然飛び出した。つまみにはなんと、イカ刺身、サバ焼き。27年10月の月見の会ではかしわでなく肉1400円である。まさか犬ではないだろうな。やけの豪勢だ。今の1万円に相当する。
28年9月には電車賃が払われている。内訳をみると、ウナギ、タコ、セイゴがあったので、仕入れに行ったのか、釣りに行ったのかは不明だ。
この当時の味付けは、たまり(醤油)と砂糖である。現在とほとんど変わりがない。昭和33年には「味元」と「コショー」が出てくる。味元とは「味の素」のことなんだろうか。この前年にはマッタケが登場している。この当時は意外に安く、いまのように貴重品でなく、カズノコやカニも赤貧のわが家でも食べていた。ここでも資産家からマッタケの差し入れがあった。
こうした誰かの自宅を借りて煮炊きをしていた宴会も、次第に料理屋から取り寄せてやるようになっていき、56年で終わっていた。
いまその子供らの私たちが、田楽、餅つき、時ならぬ呼びかけで宴を催している。親を見て育ったんだな。それに飽き足らず、私個人の所属するクラブで年5回ほどやっている。しかもわが家で開催している。遺伝子を一番受け継いでいるのが私じゃないかなァ。
昭和17年生まれの私たちは、7人家族で育った。いつしか結婚する時期が来る。この記録から拾いだすと、
昭和33年 結婚4人 生まれた 1人
昭和34年~36年 結婚6人 生まれた 2人 亡くなった 1人
昭和40年~50年 結婚14人 生まれた 14人 亡くなった10人
この頃は、結婚すると家に入り、そこで子供を産んで子供も町民になっていた。今は結婚すると別居して、子供の町民は誰もいなくなった。
戦後間もなくここに住んでいた人の名前が、備忘録に書いてあるが記憶にない。そこで図書館で古い住宅地図を探したが、昭和36年しかなくて、一宮北部があり、南部のこの町内の部分が蔵書されていなかった。一番古いので、昭和41年で、それで確認するも、知らない人が地図に書きこまれてあった。この後、近くの病院がどんどん大きくなり、人口はさらに減っていった。昔を知っている人が少なくなってきているので、今の内に聞いておく必要がありそうだ。
いま高齢化が限界集落化している現在、老人の孤独、独居老人の増加、孤独死など昔と今は大違い。戦後間もないころの隣組が今もう一度復活させ、向こう三軒の老人に声をかけ、老人の無事を確認し、孤独化を防ぐ必要がありそうだ。
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