修善寺旅行・土肥金山で金塊を見つけた
マラソンクラブで、夫婦で旅行をしようということになった。集まったのは、三夫婦と仲間たちである。夫婦と言えども、いつもクラブ員の家族ぐるみで付き合っている連中なので、気心は知れている。
6日の早朝、雷が鳴りだした。そしてスコールのような雨が落ちてきた。1週間前から、6日7日は曇り時々雨模様。こういう天気予報は、一週間もたつと半日ぐらい予報より早くなる。7時半に家を出るころには、小雨になり、バスに乗るころには曇りになり始めた。静岡から富士山が見え隠れしてきた。バスに乗り始めたらすぐに酒や焼酎が出てきた。だからトイレ休憩が自然と多くなる。
泊まりは修善寺の桂川といういいホテルである。この修善寺は私は初めてだ。川を挟んで両側に旅館が並び、そば屋が多いことにびっくりした。先日北海道へ旅行した時は、朝晩バイキングで、昼は自前という手抜きのような旅行だったが、今回は三度とも会席料理であるから期待して行ったが、中身は薄かった。こんなぐらいなら、バイキングで好きなものを取った方がいいかと思いたくなった。あまり食事に期待しない方がいいのかもしれない。こういうツアー旅行は、相当旅行社に経費を削られて、格安を売り物にして人集めしているからなァ。
朝風呂につかり、朝食後、2時間も時間があるから、街に出かけた。日枝神社に入る。境内は見事な巨木杉や杉の木が立ち並んでいた。ここは「修禅寺」という寺の鎮守様である。この隣に修禅寺という寺があった。寺院の修禅寺が元になり、修善寺温泉と呼び分けている。境内に入ると手水舎があり、手を洗うと温かいのである。温泉で手を洗う。こんなのは初めてだ。 平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基した格式高い寺である。
この弘法大師は、北は山形、新潟、群馬、静岡、山形、この愛知にも赤引温泉があり、四国、九州まで全国26あるとウィキペディアに出てくる。弘法大師は、金銀銅、なかんずく水銀を求めて全国の遍歴があったのではないか。鉱脈を探していた山師(鉱山師)と思われる。山師といっても詐欺師とは違うからね。
水銀は金銀の精製に必要だったからだ。この鉱脈が多いのは、中央構造線で、下記の地図の赤い線がそれです。この中央構造線はわが国最大の断層である。この構造線に沿って弘法大師に関連する寺が多いのは偶然だろうか。
そういえば四国の八十八か所はこの線上に集中している。友人の郷土史家が、ママチャリでお遍路をした記録が下記の本である。
参考:『中年ぼろチャリひとり旅』ブックマイタウン著より弘法大師の話を参考にしました。 私のブログにも「マイタウン」の名でリンクされています。
伊豆を行脚中の弘法大師が、桂川で病父を洗う少年を見て心うたれ、トッコ(仏具)で川の岩を打ち砕き霊湯を湧出させ、父子に温泉療法を伝授したという、修善寺温泉発祥の湯で、伊豆最古のものといわれています。左が独鈷・とっこ、と呼ばれている。
平安時代のころ、交通の便が悪かった時代に、よくもまァこれだけ動き回れたものだ。ヒョットして弘法大師が何人もいたのではないかと思いたくなる。ヤマトタケルは日本全国で見られる。彼は景行天皇の皇子であると言われるが、実は大和地方の勇者の総称であるとも言われる。タケルというのは、猛々しい者、強い者という意味で、たくさんの勇者たちがヤマトタケルであったと私は思う。弘法大師もチョットして…と思いたくなる。そのころ動き回っていた僧侶がすべて弘法大師だとしたら…。
土肥金山でウフフの砂金を採るというて体験を30分一本勝負でやった。その時の収穫である。よく写真を見ろよっ、下にたまった金塊を。……実はこの後、上の食堂で定食を食べた。このうどんやイカ刺しの上に金箔が乗っていた。
これを箸ですくってこの容器(長さ5cm、直径1cm)に入れたのォ。係員やバスガイド、同乗した客に見せたらびっくりしていたぞ。(こういうイタズラは、ワシぐらいだわさァ。イタズラ心はまだ生きている)
修善寺温泉の旅は、駿河湾フェリーでクルージングでクライマックス。ここからの富士山に堪能した。
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