バテレンの秘法と殉教の地
一宮図書館でこんな本を見つけた。この尾張地方はキリストの殉教の地でもある。
切支丹が追い詰められて、すんでのところを逃げるときに使った秘法がこの本に随所に出てくるのを拾った。
美濃赤坂駅下車、市橋の村内浄徳寺の南方に、徳川前期末ころ風可・哲心・孫之助という3兄弟の教徒が推移でいた。追い詰められて、彼らの屋敷から東南に向かって石畳の抜け穴があり、さらに屋敷の西に高さ4丈(1丈=3・03m)もある離れ岩という巨岩がしていたが、ある日捕り手が迫ってきたので、風可はこの岩上から唐傘をさして屋敷へ飛び降り、抜け穴をくぐってバテレンの秘法で逃れた。
哲心は名を変え浪人となり徘徊するが、そでも心配なので坊主となる。ついには追い立てられたという。
名古屋鉄道広見線(現在の可児近く)室原福生寺(日本ラインゴルフクラブ南) 本尊 切支丹不動尊
帷子7郷を束ねる大庄屋の娘は大変美しく、これに領主江戸の旗本林権左衛門が一目ぼれする。さすがの大庄屋も領主にはかなわず。酒興の事寄せての戯れも柳の風。燃ゆるがごとき邪欲の瞳は邪教を種に無理難題、ああ蕾の花は落花狼藉・・・・と人々は面を背けた一刹那!
百匁蝋燭のかがやきたる辺り、金色のクルスを捧げた白蝋のごとき美しい彼女の指先は、緩やかに――1つ――2つ――3つ――と円を描いた怪しい動作に、我を忘れて瞳を据えた旗本権左うっとりうっとりと夢現の境・・・・。
生ける屍のごとき権左衛門はカゴに押し込められ、犬山の旅籠で目が覚めたのがその夜もすでに子の刻すぎ。切支丹―邪教―、屈辱と怒りで烈火のごとき旗本林権左衛門、オノレ! 百姓の小娘めッ!
実はこれがあってから、権左衛門は尾張藩の寺社奉行に訴え出た。ここから切支丹の大虐殺が始まった。
寛文元年3月2日(1661)、捕り方が100人近い騎馬と徒歩とが「御用」提灯星のごとく入り乱れ、徹夜で犬山街道をひた走り駆けること約10里、大庄屋の家を取り巻いた。だが捕らえてみたら人形であった。ここでもうまく逃げ延び、以来隠れキリシタンの激励、殉教者の遺族の慰問、地下伝道をする。寛文7年(1667)名古屋千本松原(東別院の北側)で大掛かりな斬罪(首切り)が行われて終息していく。庄屋の娘も追い詰められたが、またもや催眠術で逃れ、最後は1枚の木の葉を採って木曽川に投げた。ひらりと川に身を躍らした。今投げた木の葉に乗った流れに揺られていき彼女が見えた。
乳母が彼女の秘仏十字架不動尊を携えて室原福生寺に入り一生この寺に残った神に祈った。
寛文の無村々の切り込みを合わせて、美濃、尾張の殉教者は3000人と言われる。尾張切支丹札所巡礼 森徳一郎著参照 一宮図書館蔵書蔵書
一宮市では、浅野公園に南の入口の東側に碑が立っている。「水かけ十字の碑」地ある。
一宮印田という墓地がある。この南側を100mも西に行くと、小さな黒姫神社奥まったところにある。ここに水かけ地蔵がある。
一宮駅から500m東に行くと、NTT8階建てに電波塔が見える
。この北側には八釼社がある。小高い社に上がる上ると、開祖空圓上人と書かれた大きな丸みを帯びた石が2つ並んでいる。この裏側の基礎部分に、右横書きで「クロタセウ=火あぶり」もう一つに石には縦書きで「センテンセ=判決宣言(ポルトガル語」とある。どの碑にも水を掛けるようで、火あぶりで熱かっただろうと思いこめられている。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。


コメント