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2014年11月26日 (水)

握手と礼砲と柏手の意味

握手の起源は、お互いに武器を持っていないことを証明しあうために、右手で相手の右手を握ることから始まったといわれている。

それに似たものにセレモニーの礼砲がある。相手国の重要人物を迎えた時、礼砲をぶっ放す例にしきたりである。

昔の大砲や銃は、銃口から火薬と弾丸を詰め込んだ。だから一発撃つたびに、また先から詰め込まねばならない。時間がかかるし、その作業もひそかにできない。だから相手側の賓客を迎える時、その目の前で大砲や銃を空に向けてぶっ放すことで、初めて「もうこれらには弾は入っていませんよ。」ご安心をという証明になった訳だ。今は連発式なのだが、昔の精神が国際的な儀礼を礼砲に残っている。

 

神前で打つ柏手も、神さま私は武器を持っていませんよという意味合いがあると聞いたことがある。念のためウィキペディアで調べると、
――魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人(日本人)の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記され、貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打っていたとされており、当時人にも拍手を行ったとわかる。古代では神・人を問わず貴いものに拍手をしたのが、人には行われなくなり、神に対するものが残ったことになる。なお古代人は挨拶をする際に拍手を打つことで、手の中に武器を持っていないこと、すなわき敵意のないことを示し、相手への敬意をあらわしたという説もある。

「かしわで」という呼称は、「拍」の字を「柏」と見誤った、あるいは混同したためというのが通説である。他に、宮中の料理人である「膳夫(かしわで)」と関連があるとする説や、手を合わせた時の形を柏の葉に見立てたとする説もある。この場合、葬祭などで音を出さないのは黄泉戸喫(よもつへぐい)を避けるためとされる。――

黄泉戸喫(よもつへぐい)とは、死者の食べ物(黄泉へぐい)を食べてしまったので、地上界へはもどれませんという意味。

一度神主をしていた友人の親の葬儀に出たことがある。この時はやはり柏手を打つ形で、手を叩かずに音は鳴らさず、寸止めにする。ところが必ず叩いてしまう人が何人もいた。仕方がないなァ、神式の葬儀なんて出るなんてことはまずないから。

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