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2015年6月28日 (日)

桐の魔性

阿刀田高著『街のアラベスク』を読んでいて、こんな記述を見つけた。

ストーリは、ある青年が桐下駄の贈り物を得たが、送り主が分からない。そこで桐の下駄をはいて街を歩いていれば、その内に声をかけてくるうんではないかいうストーリーだ。

行きつけの喫茶店の入ると、相席なった。その相席になった見ず知らずの人は昔下駄職人だという。

――”琴になる下駄になるのも桐の運”桐は魔性の木なんですよ。よい桐ならよいほど魔性が強い。まあ、一番いい桐は琴に造られるけれど、余った木は下駄にされ、これも上物です。

ところが、上物の桐には心があって、嫉妬もするし、支配もする。桐のとっては琴になったほうが偉いだろうけれど幸福とは限らない。考えてみなよ。日なが一日、床の間に置かれて、たまにポロン、ポロン、つまらん女に弾かれて、なにがおもしろいもんか。下駄になってあっちこち歩き回っているほうが、よほど楽しい。――

琴が嫉妬して下駄を呼び込む。下駄が知らず知らず下駄の持ち主をつまらん琴の女のところに運んでいくという。Photo

昭和24,25年、私がまだ幼稚園から小学校のころ、母親の在所からいつも下駄をお歳暮に頂いていた。これは桐ではない重たい木の下駄。それが嬉しくてねェ、畳の上を走り回って親父に叱られた。下駄をはいて自転車で20㎞先の金華山まで行き、下駄で登山をした。帰ってきたら、下駄の歯がボロボロになっていて、親父のゲンコツをもらったことがある。それほど大事にはいていたからだ。

昔は学校へ行くにも万年ジョリ(草履)というゴムぞうりや、下駄や、当時羽振りのいい繊維関係者は運動靴だった。雨の日ははねた泥でなにを履いてきたか分かったものだ。

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