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2015年8月 4日 (火)

秀吉の残虐性

羽柴秀吉の中国征討の残虐さ 

天正5年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、中国征討の軍を率いて進発。怒涛のような遠征軍は、播磨の上月城(こうづきじょう)を囲んで赤松正範を殺し、近郷の女子供を200人捕らえ、田圃の中に柱を立て横木をわたし、それに並べて吊るして絞殺し、泣き叫ぶ子供たちを、槍の穂先に串刺しにした。

「見よ!」

秀吉軍の行く手をはばみ、徹底抗戦を叫ぶ大名や領民たちへの示威である。

 

兵糧攻め 

因幡国(いなばこく)の大名、鳥取城主山名中務大輔豊国は、自らの城を秀吉に売り渡した。これは全て秀吉の策略で、豊国はわずか2郡であった。残った家臣たちは必死に城を守ろうとするが、これを見透かしたかのように、兵糧攻めにする秀吉。若狭商人にばけて、時価の2倍という金額で食料の一切を買い集めた。その高価につられて、あろうことか重臣が、城内の米まで手をつけて売り払ってしまった。

神坂次郎著の『おかしな大名たち』を古本屋で見つけ、読んでいたら、上記の記述が出てきた。

戦国という時代は、腹を切ったり、首をはねたりした時代だった。これはなにも日本だけではない、洋の東西を通じていえることだった。今現在でも、中近東では無差別な殺戮が繰り返されている。

キリスト教徒がこの尾張でも3000人が惨殺されている。

―― この島原の乱が鎮まったのちの調査によると、教徒を出したのは、尾張葉栗、中島郡内12村。美濃では17271村に及んでいる。

 

寛文元年(1661)、江戸旗本林権左衛門の領地、東濃可児郡春里村塩、帷子に始まって犬山の北東南数十カ村におよび、大体において同4200人斬罪(打ち首)77月男女745人、乳呑児14人召捕り、同年10月牢払(釈放)または斬罪2000人、912月牢者33人内2人病死残り31人、これの多くは名古屋市中区橘町千本松原の刑場で、一町四面の大穴をうがち、これへ斬り込まれた。その他笠松大臼塚で処刑されたものもある。徳川家逢左文庫所蔵の記録によると尾西北より宗徒を出したとあり、寛文の村々の斬りこみをあわせて美濃、尾張の殉教者は3000人と称せられている。――

しかも戦もない天下泰平の時代で侍とは名ばかりで、刀で人を切ったことがないから、この処刑された遺体を貰い受けて、自宅で試し切りをしたという記録もある。

いつになったら、こういうことが止まるんだろう。いつも犠牲になるのがいつも弱い者だ。

 

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