2009年6月 1日 (月)

師崎から野間まで20km、行き当たりばったり歩き旅

年一回のマラソンクラブの旅行である。

10時に一宮からワゴン車2台が14人を乗せて出発。ここから安城のデンパークに行ったという。

今日は名古屋からママチャリで70kmが一人、阿久比から常滑周りで41kmジョギングで来る一人、武豊からから21kmジョギングで一人、河和から私ら3人が歩いて13kmと、それぞれの方法で現地へ向かった。雨が降りそうで心配していたが、時々晴れてきた。風は海を渡ってとても気持ちがいい。

Fさんと私は河和からは徹底して海岸沿いを歩いてきた。だから沖の島の位置が、右へいたり左に行ってたりして、何度も島の名前を聞かなければ分からなかった。

途中の海岸で一人座ってビー ルを飲んでいる人がいる。声をかけると、遅れているはずのSさんが先行してきていた。どうも電車の乗換えをうまく使ったら、先行していた私らを追い越していったと分かって大笑い。

海岸はアサリの養生中で、結構あちらこちらを網で囲んで守っているから、歩いていても行き止まりになってしまい、有刺鉄線をかいくぐ019って道を探すという珍道中になってしまった。

コンビニでビールと名物のシラスを買い込んでと思ったら、シラスが売り切れていて、ジャコの佃煮で我慢した。これを海岸に持ち込んで座り込む。

師崎に入ると、ママチャリのK君が追いついてきて、もうすぐ武豊からA君が走ってくるという。5人が合流すると今度は車の連中が追いついてきた。こういう出会いが面白い。

宿に着くとさっそく風呂に飛び込む。全員集合である。5時半に夕食が始まる。こういう保養施設は、一箇所の食堂での食事が多く、会話がなかなかできないところがある。まず安いから仕方がない。

食事後は、部屋に戻り持ち込んだ酒で宴会を開始する。

翌朝、9時半過ぎに宿を出る。この日は5人で内海まで歩くことにした。徹底して裏街道の車の来ない道路を探して歩く。

080_3 豊浜にきたら、漁港にはカタクチイワシが水揚げされていた。それを081_2 狙ってトビやカラスが上空を所狭しと飛んでいる。これを冷凍して瀬戸内にい運んで、ハマチの養殖のえさにするという。

「市場食堂」という小さな食堂を見つけた。11時半、さっそくここでビールを飲もうということになった。

なかなかの店で、取立ての魚や干物がそろっている。作り置いたおかずがうれしい。10人ぐらい入 ると満員である。私らが5人が落ち着いて飲んでいると、次々にお客さんが入り、店の外にはいつのまにか行列ができていた。今度はこちらが落ち着かなくなり、1人1000円を払って早々に外へ出た。もう少し食べたかったのに。残念!

082_2088_2Photo浜には毎年7月中旬の土日に行われる「鯛祭り」のだし作りが始まっていた。毎年新しい材木を使って、骨組みを作り、外側を竹で囲い、その上に布を張るという。その竹割をやっていた。見ていると、やってみるかいと誘われたが、私は腰が手術後なので、A君にやらせた。8等分に割る竹割り器は、初めてではなかなかできないらしいが、とうとう10m以上ある孟宗を8等分して地元青年から拍手をもらった。昨日も21km走ってきた。わがマラソンクラブでは、最古参のランナーである。わがクラブの誇りだがやァ。(鯛は昨年の写真です)

http://www.tac-net.ne.jp/~starfish/ 095

この海岸道路は実にバイクが多い。3台10台とツーリングしている。潮風を受けて気持ちよさそう。

内海の千鳥ヶ浜では水上バイクの全国大会が行われていた。波を切りながら疾走する。一台80万円もするらしいので驚いた。この浜の競技を見ながら、参加者と話しながら歩いている内に、駅前を通り過ぎてしまった。ずいぶん歩いて、どうも変だと気がつき、車を止めて聞くと、もう野間へ行ったほうが早いという。なんということか。急に疲れが出た。

結局、20km近く歩く羽目になった。途中で道草を食っていたSさんが、内海から乗り、私らは野間から乗ったので、またSさんに先を越された。

一宮駅に着いて、車で帰ったK君と、先を越したSさんと6人で「嘉文」で飲み直した。

脊椎と頚椎の手術後でもあったが、もう2年過ぎた。おかげで2日間で、32km歩けたことがうれしかった。

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2009年2月21日 (土)

中川さんに聞かせたい話・「屁をこいて隠居した和尚の話」

屁をひって隠居した僧侶がいたぞ

『元禄尾畳奉行の日記』神坂次郎著 P170より。

これは元禄時代のお畳奉行・朝日文左衛門重章が好奇心丸出しで、毎日毎日、8863日間、事件記者のように市中の出来事を書き置いた日記である。実に面白い本である。ここにその記述があった。

・・・・・「真福寺宝生院の和尚が、寺社奉行にまねかれ、退出するときに屁を一つひる・・・・・・」

そしたまた杉戸の側で、音高く二つひる。和尚そのまま奉行所を出て行ったが、十町ばかり歩いて、思いつめた顔つきでまた奉行所の戻ってきて顔見知りの十人衆、林弥太介を呼びだし、「時もこそあれ、かかるとき尾篭の振舞、かねての持病といへ共、なんとやら公命を屁にて受け如し」(元禄八年六月十九日)・・・・・

いいかい屁をするという行為は、自然現象で避けようが無い。

川柳に「新妻の屁は五臓六腑にかけめぐる」というのがる。結婚したての新妻は、屁をカカトでギュッと押え込む。だから五臓さんも六腑さんも、アウシュビッツのガス室の責めと同じだ。これは清純な妻のことをいっているである。気の毒に。

このガスは次第に血液などに吸収され、体内の散って行く。そのうちに、ゲップとか呼気とか体臭として放出されるだろう。屁の臭いのする女という噂が立つ。ならばどうしたらいいの、というならば、「プッ」と快音を発せればいい。消音パンツをお求め下さい「独りしゃべり薬局」にて。プッシュホン電話で、プププッ9393と。

ところが飲酒は、自制できることだし、自制しなければいけない国際会議の記者会見でしょ。バカバカしくて。中川さん、あんたは失格です。和尚を見習って隠居しなさい。いさぎよく。

でもねェ、「イタチの最後っ屁」のような真似だけはしないでね。小泉Photo の最後っ屁にしては、バズーガ砲のような屁をこいた。まだロシアからの土産といって、大きなのをこくんでないか?

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2005年8月17日 (水)

昭和20年代 お祭りの獅子

今盛んに夏祭りが行われている。

私たちの町は春と秋に子供獅子が出される。1軒に5人以上の子供は当たり前でした。そんなのがこぞって出てくるから大変でした。男獅子と女獅子とに分れていても大変な人数であった。大屋敷には門付けをして、お供えをもらってきた。

男獅子は隣の町内や随分遠くの町内へ遠征に出かけ、ケンカをしてくる。勝つと戦利品として獅子の耳を取り上げた。負けた町内はすぐに親が取り返しに来た。おかげで私たちは叱られた。

sisi 祭りになると各町内は道路を横断するように、いくつも提灯を上げる。叱られた仕返しに、その町内の祭り提灯をゴムカンをもって破りにいく。遠くから見られないように提灯を狙って破る。運が悪いと燃え上がる。

一度負けて獅子の頭を割られた。慌てて近所のタンス家のオヤジさんに頼んで、ニカワでくっ付けてもらってごまかしたことがある。

あのころのガキ大将が、今孫を連れて獅子にとまり、好々爺のような顔をしている。

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