2016年1月24日 (日)

10mの桧がなんと200万円

昨年の年末、市内の材木店に出かけた。

毎年町内の神社で年末年始を通して、「どんどこ」という火をたく習慣が残っている。いわれは、

―― 当社は垂仁天皇御子倭姫命(やまとひめのみこと)が神鏡を奉載(謹んでいただき)し、美濃国伊久良川の宮より、尾張国中島の宮に御遷幸(天皇が他の場所に移ること)の時、このところにいましたによって、地名を神明津または神明渡(しめど)といい、よって社号を浜神明社と称する。

昔この辺は海潮満干する浜辺であって、神人このところで漁をして真清田神社及び当社に御贄(おにえ=神にたてまつる)に供えたが、今は水田になったという。当

当社殿の東北辺りにある舟繋松は、その一大根株が明治15年まであったといい、倭姫命の御舟をつないだと言い伝えられ、その他当社辺りは大樹でうっそうとして繁っており、東に御手洗池という大池があって、むかし林氏が大蛇を退治したと伝えられ、ものすごかったと伝えられている。 

また神殿の東側にお腰かけ石は、倭姫命がこの地に来て、この石に腰かけて休まれたと伝えられている。またその際、皇女が寒さのあまり、火をたいて暖をとられたという縁起から、毎年旧暦(今は新暦)の大晦日の夜、同境内で大かがり火をたき、餅などを焼いて、夜通し祈願することを、今もなお行事として伝えられている。――

この大かがり火が今に残っている。この日のネタを仕入れに毎年この材木店に木っ端を分けていただく。今年はとてつもなく大きな一本の木が防水シートの覆われていた。ご主人に聞くと、お伊勢さんに仲間と奉納するという。これは桧で、10mの大木で、木曽で200万円で入札したという。

なかなか目に触れることができない代物を、拝ませていただいた。

 

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2013年7月 1日 (月)

外国語を乱用するヤツは日本語を知らない

こんなニュースが流れた。私もそう思う。本でもそうだ、やたらと横文字を多用するやつの本なんか、途中で投げたす。

私はいつも電子辞書を横に置いている。この中にカタカナ発音のキーがあり、本ならば調べやすいが、テレビやラジオなら聞き逃してしまう。

――NHKの放送番組で外国語が乱用され、内容を理解できずに精神的苦痛を受けたとして「日本語を大切にする会」の世話人高橋鵬二さん(71)=岐阜県可児市=が26日までに、NHKに141万円の慰謝料を求める訴えを名古屋地裁に起こした。提訴は25日付。

 訴状によると、NHKでは報道、娯楽番組を問わず番組内で「リスク」「トラブル」などの外国語が多用されているだけでなく「BSコンシェルジュ」などと番組名にも用いられていると指摘。日本語で容易に表現できる場合でも使われているとし、公共性が強いNHKが日本語を軽視するような姿勢に強い疑問があるとしている。NHKは「訴状の内容を確認していないのでコメントを差し控える」としている。

 高橋さんは取材に「質問状を提出したのに回答がなかったので、訴訟に踏み切った。NHKだけの問題ではないが、公共放送は特に影響力が強い。年配者にも分かるような放送をしてほしい」と話している。――

私は車屋だったが、車の機能を日本語で説明する方が難しい。車は今や一家に一台あるし、試験場でしっかり教え込まれるからまだいい。私が頚椎と脊椎を手術する前に、掛かっている岐阜大学の整形の宮本敬担当医は、医学専門用語を全部分かりやすい日本語と模型で説明して下さった。インフォームドコンセント(要するに手術にまつわる説明を十分した上で同意を取ること)ができる方だった。その前に同じ大学の、ほかの先生の時は全く意味不明だった。

私の息子が工業大学に行ったとき、三つ教えた。

  1. 相手の目線に合わせて話せ。子供なら子供分かるように、老人なら老人に、専門家なら専門家に分かるように話せ。
  2. 専門用語を多用するな。素人にわかるように説明できないということは、勉強不足だ。
  3. 横文字で話すな。日本語を勉強しな。

これなんだ。NHKは全国放送だ。なにもNHKばかりではない。全てのマスコミが注意するべきことなんだ。私もこの訴えた人に賛同するぜッ。

あるエッセイイストの本を読んでいた。こんな記述があった。……95歳の伯母さんが一人暮らしをしている。好奇心も行動力も体力もあり自由気ま「メリーウイドーな生活を……」。そこで電子辞書のカタカナ発音で調べたが出てこない。
そこでメリーを調べると、……陽気な、愉快な、おもしろい、快活と出てきた。
今度はウイドーを調べたら……未亡人

これでやっと繋がった。この方はよく外国へ出かけておられるから解るだろうが、これなんか読者は大変困る例だ。日本語で書けるんだから、日本語を駆使してちょうだいよォ。マスコミもエッセイイストも言葉の魔術師のはずではないかね?

 

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2013年6月 3日 (月)

浅井公園はバラ満開

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一宮市内を流れる大江川を家内と自転車で遡った。川の中にはコイが泳いでいる。昔小学校東側から川は二手に分かれる。この本流は東側を南に流れるこちらの方が私たち夏になると遊び場だった。支流は小学校の北を西に流れている細い川だった。

ここには支流へ水を流すために、堰が作ってあった。この堰で起きる複雑な波が面白く、何度も水を飲んで泳ぎを覚えたものだ。川下りもやった。ここから飛び込んで、1km先のT家の別荘の周りが我が町内の遊び場だった。そこまで流されていく。各町内の子供には縄張りがあった。この話を家内に話しながら浅井公園へ入る。大きな池には釣り師が並んでいる。その周りにバラが植えてある。いい香りがしてくる。もう枯れ始めたものやいま盛りのものもある。見ごろである。

この浅井公園は、膏薬(こうやく)で有名な浅井万金膏の敷居の中にあった池でがある。
「うちみくじきかたのこり、その他、何病にてもすべて痛むところによし」の宣伝文句の浅井万金膏の金看板です。この看板には裏面に作成した看板師の銘と作成年が表示してあります。
この看板には「免許」と入っています。もう少し後になると、「免許」という文字はなくなり「登録商標」という表現になるようです。

この膏薬にまつわる物語がある。
――本宅前の大池へ、毎日日課の散歩にでかけたとき、池の端で息絶え絶えに、水上に横たわる鶴の若鳥を見つけた。冬の寒い朝であった。抱き上げて、人間以上に手当てを加えた。全快させてもらったつるは鶴は、長い首を深く深く下げて飛び去った。元気で飛び立った鶴の霊が、森医師の夢の中にあらわれ、その節の、お礼の心を込めて「鶴以上に、人の手足の折れる事件が多いようですから、その治療の際にお役にたつと思います。薬の製法をお教え申し上げます」と静かに頭を下げて、ツルは飛び去った。それが浅井万金膏なんです。

バラの花アート(写真を少し悪戯しました。スタジオ5からいらずらしたい写真を開きます。効果の中からいろいろ変形ができます。一度友人の顔をボコッと殴ったように変形して送ったら、しかられた)

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2012年12月 5日 (水)

とうとうただの広告塔になってしまった

困ったことを頼んできた。親友が講演会を主宰するので、私のブログを広告塔にしたいという。普通は酒一本でも持ってるものだが、メールで終わりだ。でもなァ、コイツには私は弱みを握られている。仕方がないのでここに本日初めての、私のブログを広告塔にします。今回だけだぞ、以降は有料にするからな。

この人は郷土史家で、出版物も多く、私の生涯で唯一の自費『鈍足ランナーの独りしゃべり』の出版するときには、手取り足取り指導してくれた恩義がある。いま選挙中ですが、名古屋弁の河村市長の先祖が、実は徳川幕府転覆を企てた一味であったという歴史的古文書を発掘して、『将軍毒殺』を出版しているし、『名古屋弁単語重要熟語集』という面白おかしな本を出版ている。これからも遊んでもらわなくてはいなんので、仕方がないので宣伝する。

――名古屋歴史懇話会公開講座開催のご案内

●幕末尾張藩の深慮遠謀―尾張藩抜きで幕末は語れない

  ・講 師  スピーカー・渡辺博史氏 アシスタント・永井久隆氏
  ・日 時  12月14日(金曜日)午後1時から約3時間
  ・場 所  名古屋市、北生涯学習センター(北区黒川本通)
  ・定 員  先着50人(予約不要)
  ・参加費  資料代を含め1人500円

 名古屋歴史懇話会の会員である軍事史研究家の渡辺博史さん81歳は手術不可能なガ
ンと診断されながらも、これまでの研究成果を本にして次々と発表されている。その
気迫がガンに打ち勝っているのか、このごろは以前にも増してお元気である。

 そこで渡辺さんの最後の(?)お話を聞く講座を一般にも公開する形で開催するこ
とになった。渡辺さんは尾張藩の幕末に関してもお詳しく、『尾張藩幕末風雲録』
(正編・追録)もある。幕末と言うと坂本龍馬や高杉晋作、西郷隆盛をはじめとする
薩長や新撰組などが話題とされるばかりで、御三家筆頭の尾張藩が語られることはま
ずない。

 以前、幕末に興味のある東京の人から「御三家筆頭でありながら、尾張藩は何をやっ
ていたのか」とからかわれたことがあった。中には「尾張藩は幕府の葬儀委員長」と
する見方もある。しかし、ドンパチやれば派手で目立つが、あの重要な時期に何もし
ていなかったはずがない。

 もし幕府と朝廷とがまともにぶつかったのでは内戦となり、中国のように諸外国の
餌食にもされかねない。尾張藩は幕府と朝廷との双方に軸足を置き、水面下でいかに
ソフトランディングさせるかに懸命だった。名古屋人にとっては自信を持たせてくれ
そうな幕末史観が聞けるものと期待している。

 ここでもうお一人のご紹介。渡辺さんがされている自費出版を、陰ながらサポート
されているのが不動産鑑定士の永井久隆さんである。かつては渡辺さんと職場を同じ
くしておられた方で、幕末の研究にも取り組んでこられた。この講座でも渡辺さんの
アシスタントとしてご協力いただくことになった。

 名古屋歴史懇話会は今年1年、居酒屋で酒を飲みながら多くのことを学んできた。
ときにはこんなイベント(!?)があってもいいのではないか。一人でも多くのご参
加をお待ちしている。(世話人・舟橋武志)

名古屋歴史懇話会
事務局 ブックショップマイタウン
〒453-0012 名古屋市中村区井深町1-1 新幹線高架内「本陣街」2階
電話052-453-5023――

いかんなァ、字数が多いから相当に高くつくぞォ。

私のブログはアクセスが年内に100万件突破することが確実になった。でもアクセス地域は、選挙ではないが全国区で、地方区のアクセスではない。効果のほどは保証しかねる。文句言わんといてチョ。

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2012年8月22日 (水)

伊勢うどんと伊勢たくあんはケチの食品?

伊勢うどんの歴史を調べると、今から400年以上前、鎌倉時代という説もあるが、農民たちがうどんをつくる時間を節約して、うどんに腰が入るよな延ばすことをせず、手間がかからないように太めに切って、自家製の味噌からできる「たまり」をかけて、具はネギだけで食べるのが今に残っている。ただ煮る時間が普通のうどんだと15分~20分なのが40分から1時間煮ている。これは伊勢参り(お蔭参り)が盛んだったころ、参拝客がいつ来ても食べられるように煮っ放しにしていたと思われる。

江戸時代の文筆家兼画家の猿猴庵の本によると、このお蔭参りは、慶安3年、江戸の商人たちが大神宮へおかげ参り・抜参り(ぬけまいり)をはやらせたことに始まる。抜参りというのは、主人や親の許可を得ることなく、さらには旅行手形(往来手形)もなく家を出たことで、この年正月下旬ころより多くの人々が白衣装となって群参し、その数は1日平均500~600人にのぼり、3月中旬から5月初旬にかけては1日2000人ほどになった。

宝永2年(1705)に大規模なおかげ参りが京都から派生して、閏4月9日から5月29日までに東は江戸、西は安芸(広島)、阿波(徳島)方面に及び、350万人は参宮したという。この限られた地域での350万人である。

1700~1800年の人口はおよそ3000万人。それから考えると、人口の1割という、とんでもない人がこの伊勢を訪れた。1970年に大阪万博があった。このとき初めて人口が1億人突破した。このときの入場者が6422万人とは比較にはならないが、交通の便が悪かった江戸時代で、しかも限られた地域からの参宮は大変なことだ。お蔭参りは一地区に急激に起こる。要するに一地区の商人がはやらせたからだ。「皇太神宮」のお札が夜陰に乗じて振りまかれる。これ見た人らがワッと伊勢に向かった。

ひっきりなし来る客を効率よくもてなすには、煮っ放しのうどんにネギを載せて、たまりを掛けるだけで金になる。これを称して、伊勢のぼったくり商品として、伊勢商人の懐を肥やした。関西人はこの伊勢うどんの存在を許さず、「いせうどん」を「うそうどん」と看板に書き、醤油とソースを入れ替えたりして、伊勢うどんの販売を妨害したらしい。チョット待て、「うそうどん」っていつの話だ。ソースが出てきた。江戸時代ではないなソースが入ってきたのは明治だからなァ。「うそ」みたいな話。

伊勢屋のことを、隠語大辞典では、こう書いてある。

  1. 吝嗇家(りんしゅく=けち)をいふ。伊勢国から江戸へ出て商業を営んだものに勤倹力行家が多かったことによる。川柳に「せい出してためてもいせや甥の物」といふのがある。  さてこの川柳の解釈が出ていないので、私流に解釈すると、「せいだして=頑張って、とすれば、頑張って食べて、腹に貯めて出しても、その糞は伊勢屋オレの物」というふうで、どうですか?
  2. 〔隠〕吝嗇家をいふ。伊勢国から江戸へ出て商業を営んだものに吝嗇家が多かつたのであらう。
  3. 吝嗇家のことをいふ。
  4. 吝嗇のこと。伊勢商人は昔からけちん坊であるといわれることから出た。
  5. 吝嗇家(けち)。江戸時代伊勢の国から江戸に出て商業を営み勤倹で成功したものが多く伊勢屋と屋号したものが目立つたのでその後しまりやをあざける代名詞となつた。

やっぱり伊勢には伝統的なケチが存在していた。ここまで伊勢うどんをコケにすると、大神の神罰が下りそうだが、どっこい信仰心のない私には、神罰は下らない。イスラム教徒でないあなた、キリスト教徒でないあなたに、エホバでないあなたに、これらの神々の神罰が下るだろうか?

でも一度食べたいと思って店に入ったら、真黒なだし汁は見た目ほど辛くなない。おそらく昔はたまりそのものだったんであろう。戦後間もなく、母親の在所に行くと、冷やしうどんにそのままの「たまり」だった。子供には辛くて食べられなかった。水で薄めると「もったいない」と叱られた。

うどんはぬっるっとして歯ごたえがない。名古屋の味噌煮込みうどんの半煮えのようなうどんに慣れているワシラーにとっては物足りなかった。マァ一度食べられたからもういい。その点、名古屋のきしめんは違う。 

――1609年、名古屋城築城のさい、多くの作業員に短時間で食事を提供する必要があった。きしめんはゆで上がるのが早く、どんどん食べさせることができた。平べったくしたのは熱の回りが早くて効率よくゆで上がるからだと伝えられている。値打ちに「お」がついて「お値打ち」になると、合理性はさらに追求されるという意味を持つ。ケチではないが、とことん無駄をはぶく。きしめんにも名古屋の精神が宿っている。――だから、伊勢の単なるケチとは違う。

さて今度は伊勢たくあんである。この辛いのなんの、本当に辛い。まるっきり塩だけで漬け込んである。友人の郷土史家が言うには、この辛いタクアンをカジリながらご飯をたべると、おかずがいらないという、伊勢商人のケチから始まったというようなことを言っていた。

以前、伊勢鉄人会というトライアスロンクラブが主催する、伊勢神宮の西を流れる五十鈴川を遡り、剣峠を乗り越えて浜島で折り返す「剣峠越え50kmラン」に参加した時は、折り返しの浜島で、この伊勢たくあんとウイスキーの水割りが出た。汗をかいた体には、この塩辛い伊勢たくあんとウイスキーはおいしかった。

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2012年6月29日 (金)

仏像の日向ぼっこ

いつも行く妙興寺である。

ちょうど一年前、この寺の創建当時(1310年)当時の作と言われる釈迦三尊が、修理のために、京都の(財)美術院へお出かけになった。そ016 れは物々しい引っ越しであった。各仏像は白い布に包まれて、塵一つ残さず、赤ちゃんの産毛のような刷毛で掃き出され、持ち帰っていった。

この塵から、各仏像の痛んだ所に張り合わせる工程を思っただけでも、想像もつかない長い時間と根気を要求される。この仕事振りを見ていて、コリャ、ワシには無理だわと思わざるを得なかった。

今はこの仏殿の主である釈迦三尊がいない代わりに、写真が掲載されている。それだけでこの仏殿が寂しい。

今日ここに来たら、仏殿の北側の扉があいている。何をしているかのぞいてみると、仏殿の掃除をしていた。釈迦三尊がいない間に安置される台の補修や、周りの仏像の台なども改修されていたが、昨日それが終わり、。雲水さんらによって今日は清掃をしていた。

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ここで大笑いとなった。なんと仏像三体が、仲良く日光浴をしているような恰好をして、仏殿の敷居に座っていた。

それも子供が並んで何か話し込んでいるようで、しかも楽しそうにしている。

思わず、雲水さんに撮影の許可をもらった。北側の森を眺めるように座っている。真ん中の仏像が眩しそうに手をかざしている。
「この仏殿に入ってから、明治23年には火災に遭い、その翌年の明治24年、濃尾大震災でここが壊れてしまい、雲水さんらに助けられた」
「そうだったねェ。あの時の額の傷がいまだに残っている」
「あの時から大正14年までのしばらくは、仮小屋から森を眺めていた。できるまでが長かったねェ」
「ここから外を見るのは、もう77年経ったのか。日本も平和になったねェ、このままいつまでも平和でありますように、お釈迦さんらがお帰りになったら、皆で祈りましょうねェ」
「それにしてもいい森だねェ。もうすぐ梅雨から夏になるが、ここは涼しくていい」
「いい天気だから眠くなりますねェ」
「寝てはいけませんよ、今度いつ見られるか分かりませんから」

こんな会話をしているようでした。あっという間の日向ぼっこでした。どうか妙興寺へお見えになったら、仏殿の北東の角に私たち三人はいますから、お参りしてください。

私?私はタダのマウンテンバイクで通りがかりただけのおじさんさッ。運が良ければ、しかもおじさんのご機嫌がいいときだけ案内をしてあげる。年号なんて全然知らない。宗教家ではない。だが妙興寺を少し知っているし、この森が大好きなだけで、押しかけ案内をしている。(少し嘘も入ってるかもよ。覚悟して来てください)

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2012年6月20日 (水)

第五回 ブログアート展 アジサイの部

シトシトと降る雨は本格的な梅雨の季節。梅雨と書いて「つゆ」とは読めないもんね。気象庁では「梅雨前線のように「ばいう」と読む場合もあるが、単独では「つゆ」と読む」とある。

古語辞典では、「つゆ」を検索するが、露は出てくるが、「梅雨」は出てこない。「梅雨=ばいう」を検索するがそれも出てこない。「梅」を調べると、「梅の雨」が出てきて、「梅雨」の訓読みとあり、さみだれ。とある。旧暦からすると五月の長雨で、「五月雨=さみだれ」を検索すると、梅雨。とある。今の6~7月だわなァ。はっきりせい!梅雨一文字で釈然としない、モヤモヤ、ムシムシとした気分になってきた。

相変わらず古語辞典で「入梅」を調べようと思ったら、「にゅう」は「にふ」へと追い払われた。「にふ」を見ると、「にゃ=ないの尾張弁」でイカンは。ワシはどうしたらいいのか。梅の花の咲く頃かと思ったら、梅の実がなるころの雨という。

先日稲沢のアジサイ祭りを見に行ってきた。ここ性海寺は、この地方では一番アジサイの数があるだろう。一輪一輪シッカリとカメラに収めてきた。それを今日雨を見ながら、もう一度わが家のボヤケたアジサイを見ながら、酒を飲む。(十二指腸潰瘍はどうした?という声は過去の物。リハビリのおかげよ。なんでも前向きに)

モヤモヤした気持ちを、またこのアジサイの写真で、アート展を開催しようと思った。仕方がないから我慢してやってください。

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手法は以前と同じで、フォトスタジオ5で写真を開き、ツールバーの効果などを色々かき回していると出来上がる。
・効果の中の、ツイストにうねりを入れる。
・効果、マジックミラーに放射を入れる。
・効果、液状、タイルの3Dグリットを変則させる。
・効果、歪曲の中の魚眼を回転させる。
・効果、魚眼をマジックに放射を入れる。

こんな風ですわ。自分でやっていても出来上がりが想像ができない。でも写真を撮る時、こんな画像を想像しながら撮っている。

うっとうしい梅雨も、今年はどういう訳か肌寒さを感じるように、まず湿度がない。いよいよ太陽の活動期がピークを過ぎて、冷却期に入るそんな気配を感じる。要するに「ミニ氷河期の到来」である。先日宇宙飛行士の毛利さんも、この件を言っておられたし、気象庁や新聞でも最近ニュースになっている。一度「ミニ氷河期」と検索してご覧なさい、出てきますから。「ワタシ ウソ コカナイ」と、宇宙語でささやく。

50年前の昔、私たち子どもの頃、よく雪が降りましたよね。あんな寒い季節が温暖化という言葉で忘れていたが、実は太陽の活動周期がそうした温暖化を作っていたと言われ始めた。人口増加は確かに300年前からすると相応の熱を出している。周期と言えども状況は違うだろうが、地球規模でなく宇宙規模だからどうしようもない。

人間は恐竜が死滅した氷河期を生き延びてきた。それは体内の皮下脂肪をため込んで生き延びたという。肥満のあなたの時代が来るかもよ。でもデモ……本当なんだろうか。

昨日から昨夜に掛けて通り過ぎた台風は、なんでそんなに急いで行ったのか。気象庁の発表を見ていたら、低気圧と高気圧に挟まれた狭い路地をやっと台風が通ると、口に含んだ梅干しの種を思いっきり弾き飛ばしたように、勢いをつけて通り過ぎたという。梅干しとは言わなかったが。今朝起きたらもう東北地方にいる。時速60kmとは風速より早い。

そのあとに、もう次の5号台風が来ている。災害の恐れのあるところに住んでいる方は気が気じゃないでしょう。十分気を付けてください。

しばらく「第五回 ブログアート展 アジサイ部」で気晴らしをして頂戴。

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2012年5月27日 (日)

第四回ブログアート展 バラの部

浅井公園はバラの花が盛りを少し過ぎようをしている。

ここにはたまに寄るが、釣りを見ている方が多い。フナ釣りにたくさんの人が来ている。最近高齢化したのでいつ行っても釣り師がいる。中にはサギが釣った魚のおこぼれをもらいに来ている。上手な釣り師のそばをよく知っていて、手の届くところにいる。

ここには今盛りを少し過ぎたバラがここ狭しと咲いている。しかもいい匂いがしている。今日はその写真展である。誰の?って、ワシの個展じゃがや。

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画像を少し変化させてみました。

「ArcSoft PhotoStudio 5」をクリックして、フオルダーの写真を拾い出して、「効果」の中を駆使しました。

最近性格がネジレてきたんだろうか、とうとうこんな画像が気に入ってきた。

以前の作品は、「アート菊花展」を、第一回から第三回までありますので、ご覧下さい。あなたも憎たらしい上司の顔をでたらめにして会社に張り付けてらったらどうだ。気が晴れるよ。

Photo これワシのアート顔。元顔を知らないから。でもこれが本当の顔だったりして。
友人の顔写真をいたずらして送り返してやったら、「俺の顔を勝手になぶるな!著作権侵害だ」と怒っていた。(今思い出しても可笑しかった)

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2010年8月27日 (金)

夜叉ケ池伝説マラニックの、あの日吉神社が火災?

―― 25日午後10時ごろ、岐阜県神戸町神戸の日吉神社で、国の重要文化財に指定されている三重塔(高さ約25メートル)から煙が出ているのを近くの住民が見つけて119番通報した。約2時間20分後に鎮火。塔最上部にある避雷針が焦げ、最上部の天井裏が一部焼けた。けが人はいなかった。出火当時は付近で雷が鳴っており、大垣署は落雷が原因とみている。

 県教育委員会によると、三重塔は室町時代後期に建てられた。中世の建築様式をよく表し、材木の現存率が高いことなどが評価され、1914年に国の重要文化財(建造物)に指定された。―――

こんな記事が出た。今年は日照りが多いから、夜叉姫が怒ったか。

この神社の近くに、夜叉姫伝説がある。

それは揖斐川にまつわる、夜叉姫伝説である。

その昔、美濃国神戸(安八郡神戸町)に郡司安八太夫という長者(現石原伝衛氏の先租、現在は四十七代目)がいて、たくさんの田んぼを持っていた。ある年、大変な日照りが続き、安八太夫をはじめ多くの村人たちは、空を眺めて途方に暮れていた。

信心のあつい太夫は、これを救おうと毎日お宮さんにお参りして願をかけていたところ、ある日、乾ききった田んぼでふと小さなへビに出会った。

太夫は、このヘビに向かって、

「お前が雨を降らしてくれたなら、どんな願いも叶えよう」

と、独り言をいって家に帰った。

太夫が家に帰ると、不思議に待ちに待った雨が降りだした。雨は一日中降り続き、田んぼには水が溜まり、農作物はみんな生き返った。

村人たちはこおどりして喜びあった。その喜びも束の間、雨の翌日、ヘビは山伏姿になって現れ、太夫の三人娘のうち真ん中の娘を嫁にとって揖斐川をのぼっていった。

泣きながらつけた紅おしろい、水鏡にうつったふびんな夜叉姫の面影を太夫は忘れることができなかった。

その後、安八太夫はたびたび夜叉姫を尋ね、竜神となった夜叉姫の姿をしのぶのであった。

こうしたことがあってから、日照りが続くと村人達は、紅おしろいを土産に龍の池、夜叉ケ池に祈りをささげるならわしとなった。

ところが、この夜叉ケ池の福井県南条郡今庄町あたりに伝わる伝説は全く別で、暴れ竜を退治したという人があり、今もその子孫の家には弓が残っているという。ところが鉄砲まであると聞いては聞き捨てならン。

そこで今庄町観光課に電話を入れた。

聞けば神戸町の伝説にそっくりで、安八太夫が今庄町では弥兵次になっただけであった。観光協会にたのんで送ってもらった観光パンフレットによると、色々な伝説がこの池にはあった.

・干ばつに苦しめられた村を、その娘が雨乞いのために身を投げて救った伝説。

・池にすむ竜と結婚した娘が池から戻り、竜に授かった整骨の秘術を後世に伝えた伝説。

・嫁いた娘が里帰りの時に使用した竹の枕が、斑紋を持った夜叉竹に変じた伝説。

・池に住む二頭の龍の争いを弓矢で射るという伝説がやっぱりあった。でも鉄砲は出てこなかった。

毎年「夜叉ケ池伝説マラニック」というウルトラマラソンが行なわれている。私も13回参加した。どうも近年参加者の信仰心が薄れてきたか。罰当たりメ!

そうか、私が参加しなくなったのがいけなかったのか。(反省)

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2010年7月10日 (土)

円空展が、一宮博物館でやっている

7月11日までというので出掛けた。70体からの展示物の圧倒された。なかなか見ごたえがあった。人の背丈ほどでかいものまであった。

だがひとつ気になったのが、阿吽の並びからである。「あ」は東から日が昇り、西へ沈んで「うん」となる。だから東側か向かって右側が「あ」であると思っていた。そこで調べてみた。

「阿」は口を開いて発する音声で字音の始め、口を閉じる音声で字音の終わり、「吽」は万物の終わりと最後を象徴。

「あ」は生であり、「うん」は死である。

仁王、狛犬、きつねの一対の石物にも「あうん」がある。向かって右が「あ」で左が「うん」である。

「あ」は、日が生まれる東で、「うん」は日が死ぬ西方である。

 

石物をよく見れば、口を開けている方が「あ」で、口を閉じている方が「うん」である。

そんなことは皆さんご存知ですよね。ぼくなんかは「あうん」とうなずいてしまう。

こういうことを寺の本普請をしている、稲沢の広憧寺の住職が教えてくださった。

この中で「あ」が生であり、東であるとは知りませんでした。だからですね、西方浄土という言葉があるのは。人間界から西方十万億の仏土へだててあるのが西方浄土という。

「阿吽」

1、梵語のa-humの音訳。

気息の出入りをいう。阿は口を開けて出す声、吽は口を閉じて出す声

2、呼吸

3、寺の本堂の左右にある仁王や狛犬などの相。ひとつは口を開けてひとつは口を閉じている。

でも例外もある。ときどき右左が違っているのもある。狛犬では、まりや子ども

の狛犬を足のしたに置いているものや、なかにはバラをくわえている奴も。

でも博物館たるもの、気にならないんだろうか。気にする私がおかしいのだろう

か。

あうん~っ、と考え込んでしまう。明日にでも学芸員に質問してみよう。

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