2009年12月16日 (水)

旅籠って、なぜ籠が付いている?

電子辞書を調べると、いとも簡単に回答を得た。

ーー宿屋。旅館。もと、旅行用の食物や身の周りの品を入れた容器、またはその食物。元来は馬の飼料を入れたかごの意。ーー

これで終わり。面白くないなァ。

ふと思いついた。『嬉遊笑覧』喜多村寰筠庭著があるではないか。この第三巻に記載があった。

ーー旅籠は、もと『和名抄』に、「篼(はたご)、飼馬籠也。波太古(はたご)。俗に旅籠の二の字を用いる」とある。これも鷹の餌袋のごとく、くひ物を入れて、旅に用ひし故、旅籠と書しなるべし。『古昔物語』廿六第十九語、旅の宿のことをいふ処、「旅籠、干物など食て寄伏(よりふし)たるに云々」あり、旅籠に入しかれ飯(いい)なり。(『宇治拾遺』八巻、猟師射仏の条に、「餌袋に干飯など入てまうでたり」)。後世これによりて旅店を「はたごや」といふ。ーー

Dec1601 旅という字は絶対に「旅籠」の「はた」とは発音しないもんね。「波太古(はたご)」は変体仮名で、旅籠は当て字であった。「篼」が漢和辞典にはない。でも竹を取ったら、「兜」でてきた。この意味は人がかぶとをつけた形。意味に包むがある。要するに竹籠の意味かもしれないと勝手に想像している。

そこで漢和辞典で「旅」を調べてみた。なんと旗の下に集まる人という意味があった。何でも調べてみるもんだなァ。

中国旅行に最近、身近な仲間がドンドン出かけている。19800円で4泊5日だぞ。中国へ行っている友人にメールしたら、「うそ!ワシが中国へ行くとき6万円もかかっている」という。どうしたらこんなの安く済むのか不思議だ。

いったヤツに聞くと、どうも強制的にいろんな土産物屋・足マッサージ、サーカスにドンドン連れて行き、ここで金を使わせる仕組みらしい。旅行社はそこからリベートを稼いでいるようだ。バス2台で60人、旗に従って移動しているらしい。

やっぱり旗にしたがって旅をするというのが古来からの習わしか。

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2009年11月29日 (日)

祖父江の黄葉と妙興寺の紅葉

「そぶえイチョウ黄葉祭り」に行ってきた。途中祖父江の北にある、旧尾西市の玉野の街路中が色づいている。イチョウ並木だ。だが昨年より色づきが遅いように思う。雲が多い日であったので、天気がよければもっと黄葉が映えたであろうに。この祭りも29日の今日まで。でも黄葉はどんどんよくなる。

この祖父江の「祐専寺」のイチョウの原木は見事に黄葉していた。

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商品開発も盛んで、銀杏入りの商品が店頭にずらりと並んでいる。全て「銀杏入り」の表示がある。

  • さしみこんにゃく
  • まんじゅう
  • おこわ
  • きし麺
  • そば
  • もなか
  • 酒まんじゅう
  • 羊羹
  • だんご

である。そして私が食べたのは、トン汁である。そしてただの試食品の銀杏2粒であった。

帰りに妙興寺へ寄った。仏殿が毎年、4月から11月一杯ご開帳されている。それも11月29日で終わる。一宮ではこれだけの森はない。しかも緑が多い中に時々あるモミジが紅葉している。古風な背景がほしかったが、木が多すぎてなかなかうまく入らない。仕方がない、私の腕では。

では、PC上の紅葉・黄葉観光をしていただこう。

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011_2018 Photo 3 

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2009年11月 7日 (土)

お千代保稲荷へ渡し舟

久しぶりにお千代保稲荷に行こうと誘われた。風もなくいい天気に恵まれた。

二人でツーリングする場合、横並びで走行できない。そこで、コースを尾西線のわき道を走ることにした。ここなら交差する道も少なく、車の行き来もない。田んぼの真ん中をのんびりと走る。萩原町の小さな商店街を抜けると、3kmほどで西中野に出る。ここには、木曽川にも数少ない渡し舟がある。堤防に上がると、船頭がいる小屋がある。二人がのんびりとテレビを見ている。

「お願いします」と声をかける。

二人の船頭が河川敷の船着場に来た。自転車を舟に載せる。舟は第五中野丸である。ここは県道扱いで、県の嘱託船5頭である。船舶免許の資格がある人を募集しているが、なかなかなり手がいないという。悪天候以外は運行しなくてはならないし、8時半から11時半、0時半から2時半、3時半から4時半という細かい時間に縛られている。しかも給金が安いからとぼやく。

川幅は約700m、川面は凪で鏡のようである。水鳥がここは禁猟区だと知ってか、多く羽を休めている。舟に驚いてか、時々バシャッと魚が跳ねる。対岸までわずか5分ばかり。ここには国旗を揚げるポールが立っている。ここの旗は、白地に黒の丸の中に県の字が書き込んである。これを帰りに上げると対岸の船頭小屋から見ていて迎えに来るという。県道扱いだから、もちろん無料だ。申し訳ない気がする。それになんとも風情がある。

016堤防道路に上がり田んぼ道を走る。お千代保稲荷まで7kmほど走る。田んぼはもう稲が刈り上げられている。ハサ掛けされた稲束が並んでいる。一宮あたりは全国でも一番遅い稲刈りらしい。

久しぶりにこの参道に来た。相変わらずの賑わいだ。一宮の本町とは雲泥の差だ。適当に道が狭く、かえって大勢の人がいるという賑わいを演出しているようだ。2

漬物屋、串カツ屋、衣料、食堂などが所狭しと店を並べる。漬物を摘んでいるうちに、つい買いたくなる。相棒が奥さんからスーパーにないものを買うようにとリックを背負わされてきた。最近結婚した相棒が、ニンニクを大量の買い込んだ。アハッ、若い嫁をもらったので、ニンニクでは追いつかんぞと笑う。しかも中国産のニンニク300円では、何が効いてくるか分からんぞ。同じ量で青森産だと1600円もする。

串カツ屋に入り、ビールと串カツおでんをとる。

また田舎道を走り、馬飼大橋を渡り祖父江に入り、善光寺を見る。ここの若い住職はずいぶんやり手らしく、屋根を改修して一段と立派にした。改修のとき、屋根裏に大量のハトの糞が堆積していた。それを袋につめて住職が売ろうとした。ところが誰も買わない。そこで無料にしたらあっという間になくなったという。住職の商売上手は当てが外れた。

祖父江は11月末には銀杏祭りがある。イチョウの紅葉にはまだ早い。祐専寺に寄る。ここにはイチョウの原木をがある。この寺からイチョウが増え続け、今の名物になった。イチョウ畑にくると相当に臭い。でも11月末にはこの銀杏並木が奇麗になる。また来てみよう。

一日いい天気の恵まれて、50kmのツーリングができた。

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2009年11月 1日 (日)

なんと、私のブログを読んで妙興寺へ

最近は毎日妙興寺へ行く。先日管理人と隣の博物館の学芸員と石段に座って話し込んでいた。いま博物館では、「牧進日本画展」が行われていて、たいへんな人気である。その前後にここに来る人が多い。博物館と妙興寺の仏殿ご開帳とは連動している。相互に来た人を、博物館や妙興寺へ誘導する暗黙の協定を結んでいるようだ。

ご婦人が、木の茂みの中に黄色の実をつけた木があるがという。一緒に見に行くと、クゴガネモチの葉をしてるし、実の付き方も同じなので、おそらくクロガネモチの色違いだろうと話した。

ついでに山門の造りが、普通は真ん中が扉で両側は、板囲いがあり、その中には阿吽や仁王の像が入ったりす078 るが、それがない。しかも欄間(透かし彫り)の部分が、両面彫ってあるものもあっるが、何も彫っていないものもあるという、中途半端な作りになっている。これは明治23年の火災と翌年の濃尾大震災で、連続して災難に遭い、壊滅的に諸堂倒壊焼失してしまったからだ。それから43年経った昭和9年にやっと現在の形に再建された。だからこの山門の中途半端な形は、ここで資金が枯渇した証拠である。

総門が成瀬隼人正太がここに寄贈したいきさつの裏に、徳川幕府の将軍徳川吉宗と尾張 藩藩主徳川宗春との確執を話す。

仏殿の南西にある歌碑に「親のなき 子等をともない この荒海を 渡り帰らん この荒海を」とある。この妙興寺の18世老師・河野宗寛老師が、満州から孤児300人を連れて帰った歌日記であると話す。

1このご婦人の大変歴史に造詣が深そうだ。なんか恥をかきそうな雰囲気を感じながら、「柳生無刀取り発祥に地」であり、始めはオニギリから始まったことや、武道家がオニギリでは都合が悪かろうと、後年話をすり替えて記録を残している。など、ここのパンフレットにない話を2_4してあげた。

この方に、こんな話をしてあげたら、ご婦人が、「この話は、誰かのブログで読んで、興味を持 ったのでここにきた」というではないか。なんと、私のブログを読んでこられたとは驚いた。学芸員とご婦人に名刺を渡し、河野宗寛老師の満州孤児を連れ帰る『慈眼堂歌日記』に感動して、ブログで2005年7月に「すごい和尚がいた」を7回連載したことを紹介した。

ご婦人はこの本が読みたいというので、豊島図書館に道筋を教えて分かれる。

大体毎日の日課で、マウンテンバイクで9時から11時ごろまで約30km走り、この妙興寺へ来る。そして仏殿の管理人と石段に座り込んで、なんでもない話をして、森の芳香を嗅ぎ取る。時にはオオルリやオナガニ会える。都合がよければ、説明ぐらい差し上げてもいいが、知らないことは知らないと言ういい加減な説明だぜ。会いたい方は、午前11時過ぎに顔を出せば会えるかもよ。

妙興寺のパンフレットにない、面白話だから、多少嘘こいてもいいと思っている。中には珍説もあるかもよ。

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2009年10月18日 (日)

扶桑緑地公園から一宮大野緑地までは、素晴らしい

先日犬山の歴史史料館へ行ってきた。その帰り道、扶桑緑地公園を経由して帰ってきた。ここは実に素晴らしい。

木曽川に流れを見ながら、季節の花が咲き、とてもよく手入れがされている。ここを管理している方たちは、ボランティアで、全長2kmほどのコースには南側に花を植え、両側には風景を看板で案内されている。

実に多くの人が歩いたり自転車で来てる。http://www.town.fuso.aichi.jp/tourism/kou/kou_43.htmlPhoto

犬山城の下流にあるグランドから川岸へ出ると、自然とこの歩道に出る.。右側に木曽川に対岸には伊木山が見える。またの名を寝釈迦山と か、ガリバー山というらしい。なるほど、釈迦が寝ているように見える。この寝釈迦山という名は全国にあるようだ。○○富士と同じように、山岳信仰からなのか、大日ガ岳と釈迦○○などという名が多くつけられた。

Photo_4 歩道下でご夫婦が何かを拾っている。聞くとクルミという。ビニール袋はもうパンパンに膨らんでいる。こういう収穫Photo_2 が一番うれしい。春には竹の子、桑の実、アケビもある。でも草むらには、マムシ注意の看板もある。川ではいま落ち鮎が盛んで、多くの人がガリという引っ掛け釣りをやっているし、川の浅瀬では投網をやっている。

空はあくまでも高く、赤トンボが盛んに飛び交う。

なんと桜が咲いていたではないか。四季桜と表示がある。何本もあり時ならぬ桜並木を行くことになった。ここは実によく表示をしてくれている。向こうの山は何山と言う表示もあるし、昔話なども書いてある。

Photo_5 これを読みながらずいぶん楽しめる歩道だ。愛岐大橋の少し上流で歩道がなくなるが、今度はスーイートピア江南から河川敷へ入る歩道が出来上がって いる。http://www7.ocn.ne.jp/~suitopia/

このスイートピア江南は名前どおり57m(コウナン)あり、最上階には大浴場がある。木曽川を眼下に見て、遠くは御嶽山や美濃の山の山並みを見ながらの風呂がとてもいい。周りにはテニスコートもあり、たくさんの利用者がある。

約1kmほど下流に、フラワーパークのある。ここで堤防に上がる。http://www.kisosansenkoen.go.jp/~konankaki/kgoannai.html

いい気分で走られた。犬山から扶桑、江南、一宮へこういう歩道が続くと、市民のいい憩いの場所になるのに。一宮の河川敷の総合体育館のような、ばかでっかい施設に70億掛けるぐらいなら、この方がよほどいいのに、と、また愚痴が言いたくなる。

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2009年10月16日 (金)

徳川宗春と成瀬隼人正太を求めて、犬山城へ登城する

このごろ気になっていることがある。妙興寺の南にある「総門」の説明書きである。

『妙興寺散歩』では、--この総門が伊勢湾台風で倒壊したとき、延享3年(1746)の棟札が発見さ2 れた。それによると尾張徳川家筆頭の付家老である犬山城主五代の成瀬隼人正太は、八代藩主徳川宗勝から、邸宅をいただき、これを総門建立の材料として寄進した。--

とある。

ところが門前の案内板には、--宗勝から、隣接する屋敷を拝領し、両屋敷を一つにしたために、使わなくなった門を寄進した。--

この微妙な言い回しが、気になって仕方がない。私が「案内パンフレットのない妙興寺の歴史」というのを、妙興寺から頂いた『妙興寺散歩』などから、面白話を引き出して書いたことがある。これを今ご開帳中の仏殿の管理人に説明の手助けに書いたら、隣接する博物館の係員がコピーをして持ち帰ったという。なにかの説明の役に立てばという思いからだ。

私は総門のことをこう解釈した。「隣接する徳川宗勝から屋敷をいただき」と書いた。これにすぐ反応したのが、郷土史家で走友のマイタウンさんである。「殿は城の中にいるので、成瀬と同じの城外には住んでいない」という。なるほど確かに徳川宗勝は尾張八代藩主である。謎はまだある。

  • 当時の屋敷図を見ると、隣接するのは、次席家老竹腰志摩守と成瀬大内蔵(成瀬隼人正太と統一人物か?)である。ならば隣接する屋敷がどこなのか。これが分からん。それともこの地図の時代が違うんであろうか。
  • ちょうどこんなころの尾張藩主は、七代徳川宗春である。このころあの暴れん坊将軍の徳川吉宗が将軍で、享保の倹約令を出し、財政立て直しを計ってる最中である。これに逆らうように、宗春は歌舞音曲やりたい放題。閉めすぎる倹約令はかえって民衆が苦しむとばかりに、芝居小屋、遊郭、飲食店、盆踊りを盛大にやってのけた。これが吉宗のカンにさわり、元文四年(1739)に謹慎、蟄居を命じられ、幽閉されてしまう。
  • 宗春のあとを継いだのが、宗勝であるから、城に入るなら屋敷は要らない。だが、宗勝が城下の住んでいたという証がない。(要するに調べるすべを知らないだけ。こう書いておくと、郷土史家からまたお知らせがあるだろうと期待する)
  • もし城下に住んでいなかったら、誰の屋敷を与えたか。
  • 竹腰は、宗春は謹慎したときに、高齢のため隠居している。

この総門を見るにつけ、頭を傾げるのである。そんなことを色々パソコンで調べていたら、犬山城白帝文庫歴史文化館編集の『研究紀要第二号』のなかに、「成瀬正太と徳川宗春」が掲載されていることを知った。これがどうしても読んでみたくなり、犬山城下の歴史史料館へ出かけたというわけだ。現在の館長は、成瀬家のお姫様がなされている。一度一宮のイベントでお会いしたときに、二人で記念写真に納まった。恐れ多いことだったが。

1000円で仕入れ、さっそく読んだ。ところが、宗春の資料というのは、どうも謹慎を機会に意識的に処分された形跡があり、なかなかはっきりしない。憶測されながら書かれてあったのが、

  • その謹慎へ働いたのが、筆頭付け家老の成瀬正太と次席家老竹腰正武であるといわれている。宗春が跡目を継い時三十六歳で、成瀬の年は二十九歳と若く、竹腰は五十六歳という老齢である。幕府の裏で動き回ったのが、竹腰で、宗春をいさめる役が成瀬であってであろうと推測される。
  • 付け家老の役目は、藩の大勢を適切な方向に進めることが役割とされ、万一、藩主が、幕府のためにならない場合は、これを諌め、それでも聞かないときは、「屍をもって諌めるべき事」ともいわれた。『尾張藩公法史の研究』林勲一著
  • 事実、吉宗の死後、宝暦年間に成瀬正太は頻繁に幽閉されている宗春へ、季節の干鯛、焼鮎、蒟蒻、マッタケ、塩鱒などを「内々進上」をしていることが、『正泰公御伝』に書かれている。これは成瀬が宗春への晩年の至るまで、尊敬と親愛の気持ちを残していたと思われる。

でも、総門を貰う理由はないが、まったくの憶測だが、幕府の尾張藩お目付け役である、付家老成瀬への配慮であったであろう。この後は藩内で成瀬の権威は向上していった。吉宗もこの成瀬への特別目をかけていたのPhotoは、家康以来の忠臣であるからだ。

成瀬は三河の足助の山の中に成瀬郷というのがある。近くに成瀬城跡もある。ここには成瀬の氏名が多く、成瀬神社というのもある。 家康が松平であるころから、一緒に転戦をして武功を立て、ともに生き抜いてきた忠臣だからである。成瀬の姓はここから始まった。

久しぶりに少し勉強させてもらった。これで妙興寺の総門の説明に、そこしはハクがつくかなァ?。 

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2009年9月 4日 (金)

家内に強請られて温泉へ

2日間の休みが取れたので、温泉へ連れて行けと強請られた。強請るは「ごうせい」「きょうせい」と読めるが、「ねだる」とも読む。僕にとっては「強請(ゆすり)」に近い。温泉といえば、当然湯上りにビールが付き物だ。

だが日帰りとなると、そうはイカン。だからできるだけ近場の温泉を探した。そこで選んだのは、揖斐川の上流、久瀬温泉「白龍の湯」か、粕川の上流、春日村の「もりもり村リフレッシュ館」である。ここなら山の中で雰囲気としてもいいし、距離も近いから、1時間ちょっとで行ける。

帰りには、ヤナに寄って鮎でも食べてくればそこそこ小旅行の雰囲気が出る。今日はどうも山のほうでは強い雨か雷雨の可能性が高いから、あまり山の中に入り込むと、最近の集中豪雨のような雨にやられると、土砂崩れなんてことにならんとも限らん。そこで今日は池田山の北側にある「もりもり村リフレッシュ館」へ行くことにした。http://www.ginet.or.jp/morimori/index.html

この辺りならもう7~8年前になるが、ランニング登山で、池田山、鍋倉山には何度も来ているから、地図なしでも行ける。「夜叉ケ池伝説マラニック」には毎年不参加ながら、応援に来ているからだ。鍋倉山に、私のマウントザック「マウント(山)・ザック(ZAK)=ズルズル(Z)歩く(A)会(K)」というクラブで入り込んだときだ。帰り道川沿いにたくさんのワサビが自生していたので、たんまり採ってきた。後で考えたら、この山の中にはわさび畑があり、そこから流れ出たワサビが自生したんだということが分かった。「梨下に冠を整さず、瓜田に靴を納れず」で、他人から疑いをもたれるような行為は、自制すべきであった。

この鍋倉山の登山口を通り過ぎるとすぐに、「もりもり村」ののぼり旗がかざしてある橋を渡ると、結構大きな建物が見える。ここが温泉である。中に入ると半分は、保健センターが使っていて、後の半分が温泉と売店で占めている。

ここの売りは、「薬草の風呂」で、この上流に「さざれ石公園」があり、国歌「君が代」に詠まれた「さざれ石」が、アッチコッチに露出している。見かけは悪いが、伊吹の石灰石が雨水に溶け出し、長年かかって小石をくっ付けて巨大に石となった。この場所に立つだけで、薬草の匂いがプンプンする。一度ここから伊吹山に登ったが、登山道は薬草の匂いだらけであった。薬草の宝庫である。

入浴料は400円だからタオルを持参したほうがいい。風呂は浴槽が3つあり、温泉ではない普通の風呂、泡風呂、薬草風呂、薬草サウナがある。この近くの天然温泉は、ほとんどがこのぐらいの大きさだ。薬草風呂には黒褐色の塊が浮遊している。「ウンコ?」と思ったら、枕ぐらいの薬草の入った袋から染み出した灰汁(あく)と説明書きしてあった。

ここの薬膳料理が有名だが、今日はここを出て、揖斐川にある観光ヤナを探す。この川沿いだけでも6軒ある。鮎は一尾500円の見当で行けば、7尾Photo の料理だと3500円。10尾ならば5000円見当だ。

面白い話がある。ここらの鮎は、養殖が多い。天然なんてそんなに手に入るものではない。一宮の名鉄木曽川堤駅の下に鮎の木曽川養殖センターがある。私らが木曽川の河川敷でバーベキューをするときに、ここでまとめて50尾(3kg)ぐらい生きたまま買うと、kgあたり3000円で9000円だった。一尾が180円ぐらいになった。ここには、早朝から遠くは矢作川、揖斐川、根尾川のヤ004ナ業者がドット鮎を仕入れていくのを目撃しているし、業者が仕入れに来るといっていた。

1000尾ぐらい買えば1尾100円ぐらいに付くと思う。推測だが、それを鮎料理として1尾500円なら十分に採算が合う。先日、スーパーの特売で、3尾500円で売っていた。どう、1尾166円ぐらいについている。勘定は十分すぎるほど合っている。

そんなことを考えて魚田や雑炊、刺身など、手の掛かった料理を食べると味気なくなるからもうやめる。近いうち にでも、木曽川養殖センターに出かけて、根掘り葉掘り聞いてやろう。

ここでは毎朝6時から6時半、鮎の「競り市場」が9月~10月一杯開かれている。500円で登録すれば永久にセリに参加できるとあるから、個人参加もできるということ。しかも天然鮎だという。でもそんなに数はないと思うよ。セリ時間が30分だもの。

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2009年7月 6日 (月)

伊勢神宮と朝熊山・金剛證寺の両参り

まず伊勢志摩スカイラインで、朝熊山に登る。

この伊勢志摩という名前は、「磯や島が多い=磯島」から「伊勢志摩」になったという説が3 ある。伊勢神宮はもう何度来ただろう。愛知県に住んでいると、小学校の修学旅行はたいていここに来る。でもいつ来ても疲れるという感じしか受けないのである。家内もいつもは、お参りもせずに「おかげ横丁」に逃げ込むという。

神宮会館脇に大きな駐車場ができている。ここに誘導する指示の看板が盛んにでる。「社会学研究何とか」という看板に誘導されてそこに入った。ここから神宮までが遠かった。ちょうどおかげ横丁の一番端っこぐらいに位置する。神宮の入り口に行くと、そこの駐車場に空きがあった。この「社会学何とか」という看板に騙された。

この会館には、2度ほど宿泊したことがある。五十鈴川の伊勢神宮の対岸に、舗装された林道が、五ヶ所湾に通じている。ここの尾根に「剣峠」がある。ここからの景色は絶品であるという触れ込みに誘われて、「浜島」までの往復50kmマラソン「剣峠越え50kラン」に参加したことがある。

峠で見る景色は、尾根がどこまでも続く南伊勢。南には五ヶ所湾が眼下に望める。実に神秘的で感動した。だがここは神宮の所有地で、ほとんど自然のままなので、獣が実に多い。もっと言えば、伊勢市の三分の一を神宮が所有しているという。キツネやマムシがたまに通る車に跳ねられれて死んでいる。特にマムシがものすごく死んでいた。この森には入りたくないと思ったほどだ。

だが、私がたくさん走ってきた林道の中では、一級品の林道だ。あまりにも美しいので、つい歌を作った。

  • 念願の伊勢朝熊山両参り眼下に広がる島々まぶし
  • 木漏れ日が道に映す幻燈の光に中に木の葉ゆらゆら
  • 磯香る照り輝く凪の海沖行く舟の波に筏ゆれ
  • 神宮の森は生きてるジムグリとマムシ、シマヘビ長物総出

神宮の橋がただいま架け替え中で、仮橋を渡る。大勢の人が来ている。土曜となるとこPhoto んな人出になるんかや。驚いた。

あまり興味のない神宮を、嫌々歩いているとずいぶん疲れる。というと神罰が下りそうだが、信心していない神さんがなぜ罰が下せる?アラーの神さんの神罰があんたに下るかや?と、罰当たりなことを言っている。

おかげ横丁に行くと、ずっとどこまでも人の波。飯を食べようと思ったら、どこもかも、行Photo_2 列している。並んで待つこと大嫌いな私は、ジッと我慢の子であった。単品一本やりの「伊勢うどん」に狙いをつけた。これでも相当待たされた。

店を出て、土産を買う番になった。赤福は相変わらず人気がある。食料関係で偽造した店は、行政的につぶすべきだと思っている。ところが家内が好きで、こいつを叱りつけると、ワシが潰される。それが怖い。

逃げるように伊勢を後にした。友人の車屋から、ETCを借りた。カードは息子が持ってきた。今日の高速料金は安く上がると、なんとなく得した気になった。ところがドッコイ、ガソリンの残量がどんどんエンドに近づいてくる。

アチャ~!高速に入る前に、給油してくるのを忘れたヮ。松阪で一旦降りて、給油して改めて高速に入る。なにやっているんだ、これでは安いはずのETCが何にもならない。しかもこれを貸してくれた友人に1000円の赤福を買ってきた。だからETC赤字である。

でもいちいち払わなくてもいい便利さはいい。しかも息子のカードだからなおさらいい。アハッ、いい家族旅行だったわ。宿が一番悪かったが。

今度は、一流のホテルを頼んで、家族を仰天させてやる。待ってろよ!

アッ!いい方法がある。息子の会社の保養所を使おう。ここは一流のホテルと契約しているから。勘定は息子もちで、ウフフ、これに決めた。

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2009年7月 5日 (日)

伊勢湾フェリーに乗船したら、霧だった

9時20分に出るフェリーに乗ろう。30分前に受付をすると、一番乗りだった。受付をして、出航まで時間があるので、近くの売店で土産を探していた。

息子が、神奈川から来ていたので、会社への土産は伊良湖で買うより、伊勢の方がいい。遠くからの土産という、余計なありがたみがあるからと買わせなかった。余計なことか。出発の15分前に車に戻るように場内アナウンスが流れた。

ちょうど先ほど入った船から、車が吐き出されてきた。皆前向きで降りてくる。はて?車がバックで入れるわけでないのにと思った。フェリーなんてはじめて乗るから、その辺がよく分からない。

いの一番に車を入れる。ここから乗船した車は、大型1台、乗用車20台ぐらいである。あっという間の乗船である。入って知ったが、出入り口は前後にあり、向こうに着いたら、船がバックして停船する仕組みだと知った。早々一番上甲板に出る。船尾に近い場所にイスがかろうじて並んでいる。

朝、浜をジョギングしていたときから、沖で霧笛がよく鳴っていた。今になって気がついたが、相当の霧が4_2 出てきた。隣に今しがた着いた船が霞んで見える。船内アナウンスで、霧のための出航が遅れるという。今朝はずいぶん冷え込んだから。船内の売店の売り子さんに聞くと、よく霧が出ますという。伊良湖湾の出入り口の防波堤が霞んでいる。船をつなぎ止めるロープの船員が、出入り口さえ見れれば出航できるという。

船は「知多丸」・2331トン・時速17.5ノット(1ノット=1,852km)・500名・バス11台。乗用車43台・バイク10台。これがこの船の仕様である。

30分遅れで出航。周りは霧の中。船内のマイクから誘導する声が流れる。「もう少し左へ」「了解」「そのまま」「了解」・・・。こんな大きな船が小さな円を描き反転する。スクリュウが横向きの付いているんではないかと思うほどだ。(事実は知らない)

この上甲板が、いざと言うときの集合場所であると記載がある。だが、排気ガスや船内のトイレや、室内の換気は全てこのあたりに集中していた。どうも息を3つめていないといけない場所らしい。

息子が携帯のGPSを持っていた。現在地の緯度経度、高度、時速、進行する方角が克明に出てくる。それによると、時速は19km~28kmぐらいであるという。鳥羽には出航が遅れた分、予定より遅れているが、航行時間は55分と正確であった。

伊勢湾の航行距離は21kmぐらいを、55分というから、マウンテンバイクでいつも走っている時速と大して変わらないことを知った。

霧で出航が遅れ、長い時間乗った割には、景色がまったく見られなかったのが残念である。

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2009年7月 4日 (土)

伊良湖岬の灯台はカギだらけ

家族旅行に伊良湖を選んだのは、5年ほど前まで、3度ほど行ったことがある民宿だからだ。

宿泊後、フェリーに乗るまでの時間を、恋路が浜を散策しようと思った。宿から1km足らずにこの浜がある。ここに大きな駐車場があり、もう売店が店を開いていた1

なんと大ハマグリが、1000円の値をつけていた。こういうところで食べたいのだが、なにせ今しがた朝食をとったばかりだ。(あとでフェリー乗り場に行くと、ハマグリは500円で売っていたぞ)

朝から駐車場に多くの人が集まっている。黄色いブルゾンを着ているから、たぶん海岸の清掃する地元の人だろうと見当を付けた。浜では投げ釣りをやっている。聞くとまだ小さいがキスが釣れていた。

細かい砂に足をとられながら、ハイキングコースに出る。ここから少し登り下りする、灯台が見えた。昭和4年の建てられたもので、交通の要所の伊勢湾の守りの灯台である。

近づくと、灯台の管理用の扉に、カギがしてある。これは当然だが。でもしかし、カギが何個も付けられていた。2_3

裏に回ると、金網に二人の名前を書いたカギがぎっしりと付けてある。もう絶対に二人は離れないぞというように。

ばか者が、錆びてカギが壊れて、ボロボロになる運命が二人にはまだ分かっていない。ワシはよう~分かるのだ。人生も末期になるとよく分かる。

まず半年も経たない内に、管理人が二人に仲を裂くだろうが。

帰り道、掃除をしている人らは、地元の商工会員と知った。一カ月ごとにやっているのか?というと、恥ずかしそうに、いいえと言う。う?では半年かと言うと、うつむいた。うへっ?まさか一年に一度???と言うと、ウンとうなずいて、早々に立ち去っていった。こんな観光地なら、旅館組合や飲食店組合などでもっと頻繁にしないと、すぐに汚れる。

でも余分なことか。

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