妙興寺の剣士
妙興寺という寺に毎日寄っている。ここにもうずいぶん前から、木刀で居合いの練習をして
いる人がいる。確か薩摩の方の居合だと聞いたが気がないのですぐに忘れた。ところが最近3人に増えた。弟子ができたらしい。
この剣法は、
――無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)とは、江戸時代に長谷川英信が開いた武術の流派である。土佐および信州で継承された。長谷川英信流ともいわれる。土佐では長谷川流、長谷川英信流、無双直伝流、無雙神傳流等さまざまな流派名が名乗られた。幾つもの分派があったと思われるが、明治以降残った二派を大江正路の門人達は谷村派、下村派と呼んだ。谷村派は無双直伝英信流を、下村派は無双神伝英信流を称している。現在では土佐に伝わったもののみ残っており、別名土佐居合とよばれている。――である。
薩摩でなく、土佐だったか。八段の方の指導を受けて、いろんなことを想定して立ち合いをしている。木刀がカチンカチンと静かな境内に響く。その脇で木刀の響きを避けるようにギターの音色が流れる。ここの仏殿の管理人と、石段に座ってじっと聞き耳を立てる。
先日清須の方がここで映画を撮りたいという。それならば寺の事務方に頼んできなさいと口案内をした。話を聞くと、結構武者姿に憧れている方が多いらしい。信長が好きだとか、秀吉、家康、清正が…など好みが多いらしい。そんな方と神社仏閣を背景に撮影をしていると、またそれを見ている人の中に、そういう趣味の方が多くて、仲間が増えてきて、今では相当数の方が自家製の鎧兜で参加してくるという。
そこでこの妙興寺は無刀取りの発祥の地で、その説明をしてあげた。
――[柳生無刀取り発祥の寺]
普段法要とか講演・説教が行われる方丈(客殿)の南門の西に、「上泉伊勢守信綱修道跡」という小さな石碑が立っている。その案内には、柳生無刀取り発祥の碑である。
尾張柳生の本家の当主・柳生巌長(よしなが)氏の著『正伝新陰流』のよると、信綱が清洲から伊勢路への途中、妙興寺あたりにさしかかった時、村中が騒いでいる。
村人にたずねると、乱心者が子供をさらい、妙興寺の納屋に立てこもっているという。信綱は寺から法衣を取り寄せ、頭も僧形にまるめて、握りめしを2つ手に持って、乱心者に呼びかけた。
「見ての通り、わしは僧りょだ。仏に仕える身は慈悲を第一とする。聞くところのよると、その子は昨夜から飯つぶ一つ口にしていない。この握りめしを食べさせてやってくれないか。
乱心者が手をのばした。信綱はさらに呼びかけた。
「お前も一つ食べんか」
乱心者は抜き身を放して、もう一方の手を出そうとしたその瞬間、信綱は乱心者を取り押さえた。
信綱は弟子の宗巌に、無刀取りの技を完成させるように頼んだ。無刀取りとは、素手で敵に対し、剣を奪って敵を制することである。
宗巌がこの技を完成して、信綱から印可状を授かった。この宗巌がのちの石舟斎で、徳川家康に見いだされてから、忠勤にはげんだ。(テレビや映画では、幕府の裏側でいつも諸大名に隠密を送り、なりふり構わず、幕府を守るためならなんでも画策するという、後ろ暗い人物像がもっぱらだが)
のちの巌延の手記『兵庫由来記』には、信綱が妙興寺で乱心者を捕らえた話を、父祖(信綱・宗巌)伝承として記録している。信綱が妙興寺の庭にかがんで何気なく砂文字を書いていたら、突然乱心者に切り付けられた。とっさに刀のみねを両手で引きすえ、組み伏せたとある。
ずいぶん話が変わっている。兵法者としては、握りめしでごまかしたよりは、パッと素手で刀を受け止める方が、柳生家としてはハクが付く。どちらが本当なんだろうねェ。この分だと『兵庫由来記』が残っていくだろうなァ。
伊勢路にでるのに、妙興寺に寄るのは遠回りになる。そこを探ると、信綱は妙興寺
に滞在して、禅の修業に励んでいる。剣禅一致の精神を会得するためだったらしい。――
剣士は、その話は「七人の侍」のおにぎりはここから出た話かと感心していた。
12月9日に撮影に来るという。楽しみにしている。
念の為に、この撮影監督のホームページは、http://kiyosu-movie.jimdo.com/でご覧下さい。侍も募集しているらしい。近々合戦があるかも。
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