2014年6月14日 (土)

神と佛の字の成り立ち

深夜いきなり神がかりになった。枕元のメモに「神」と「佛」をいう字の成り立ちを調べよと書いた。

翌朝『角川・新字源』という漢和辞典を引き出した調べてみた。

「神」は、示と、いなびかりの意と音とを示す申(しん)とから成り、もと、雷神・天神の意をあらわしたが、転じて、広く「かみ」ひいて、人間わざをこえたはたらきの意を表す。雷鳴と稲光からきているのか。

ではどんな神さんがいるんだろう。

  • 悪神…人を害し、わざわいを与える神。何処か隣近所の国にそんなのがいるような気がする。
  • 現人神…この世に人となって現れた神。天皇を指していった。
  • 生き神…人の姿で現れた神。徳の高い人を尊んで言う語。
  • 石神…奇石、石剣などを神体とそてまつった、民間信仰の神。
  • 氏神…その土地に生まれた者を守る神。鎮守の神。氏の先祖として祭る神。また氏にゆかりの深い神。
  • 鬼神…荒々しく恐ろしい神。きじん。
  • まだある。海神・軍神・山神・水神・天神・武神・七福神・雷神・風神・雷神など

人は弱い者だ。こうしてみると、日本人は多神教だということがよくわかるなァ。

「佛」は、人と音符弗(ぶつ・みわけがたい)とから成り、ぼんやりしている意を表す。弗は、からまったひもを二本の棒で振り切る意を表する。

「横から見た人」と「からまるひもを二本の棒で振り払う。それらしくありながら、見えないさまを表すから、「ほのか、かすか、ほとけ」を表した。

  • 生き仏…この世に生きている人間で、仏のように徳の高い慈悲深い人。生身の人間で仏としてあがめられる人。
  • 石仏…石で作った仏像。
  • 活仏…いしぼとけ。チベット仏教の首長をさす。
  • 灌仏(かんぶつ)…仏像に供える水をそそぎかけること。灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う行事である。毎年4月8日に行われる。甘茶をかけるあの行事だ。

私はもともと宗教心がないが、妙興寺にはよく出入りしている。今回の字の成り立ちは、好奇心だけで調べたの。こうなると、私の生まれの成り立ちの方が問題なのだろうか。

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2013年11月30日 (土)

妙興寺のドングリとワニ

Photo_3妙興寺にはドングリの木が多い。今の季節はドングリがゴロゴロしている。

子供が来ると、特に大きなドングリを拾ってポケットに忍ばせている。これを子供にあげるととても喜ぶ。

この大きがなドングリを私たち子供の頃、ビー玉と同じようなゲームを作り取り合った。小さい方から小ドン、中ドン、大きので真ん丸なのは大ドンといったと思った。写真の長いのは、長ドンと言うのだろうか、もう覚えていない。

森の中に入ると、ドングリが固まっているところがある。何か寒さでおしくらまんじゅうをしているようだ。水の通り道に落ちたドングリが、ここに固まったんだろうか。ここまで子供が入らなから、たくさんある。

先日日曜日に通りかかった公園は、親子連れで賑わっていた。そこで今採ってきたドングリをバラバラとこぼしてやったら、子供らが大騒ぎしていた。こんなドングリが子供らにこれほど人気があるとは知らなんだ。

ここにギターの練習に来る人が、同じように近所の子供らにあげると、大喜びすると笑っていた。

池を覗くと、なんとワニがいるではないか。よく見ると枯れ枝であった。というのは分かっていPhoto_4たが実によく似ていた。

近くにいた子供に、ワニがいると騒いだら、ワ~ッ本当だ、と大喜び.。

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2013年9月 5日 (木)

ヒルの山登山 霊仙山など 2

ここを登山しようと企画。伊吹山の南の霊仙山へ行くことにした。地元の役場で聞いたら、この山の登山道を自主的に管理してみえる、西出商店さん(?)がおられるというので、電話をしたら、中道は蛭が多い。木の上から人間の排気ガスを感知して落ちてくる。岩に座ろうとすると岩がザワッと大きくなりザワザワ動くという。それが蛭だという。

気持ち悪いなァ、そこで東から入り、頂上で展望を楽しんで、中道を避けて西から降りてきた。下山したらお店屋さんがあったので話し込んで帰ってきた。

岐阜の舟伏山へ登山に入った。蛭山の経験から、広いツバの帽子とウインドブレーカー、首にタオルであった。蛭やマムシは登山者に気づいてから、攻撃態勢に入る。だから先頭よりその後ろのが被害にあう。案の定ウインドブレーカに蛭が落ちてきたと後ろで騒いだ。私は先頭で堂々と歩いた。マムシなどヘビは、踏んづけない限り向こうか逃げる。

ヤマヒル、マムシ、ヤマビルの生息地を、彼らが一番活動する6月の雨上がり、ランニングパンツとランニングシャツで走った。多度山から入り東海自然歩道のある下山路を見つけた。少し疲れたのでここから降りることにした。だが草ボウボウ。かろうじて草の下にある山道を見つけて一気に降りた。足はドロドロ、下山したら鱒の養殖場に行きついた。足を洗わせてというと、どこから来たというんで、説明したら、この看板を見てみろ、ここはマムシ、ヤマカカシ、ヤマヒルの生息地と書いてある。(ゲッ!)

おやじの心配をよそに、以来私は、蛭は早い私には飛びつけない。マムシやヤマガカシの毒ヘビは目に見える場合は、飛び越えることだ。飛んだあとスッと縮むものがある。(股間じゃ)

これで山を走る自信になったことは確かだ。以来一人でよく山を走った。この尾張平野から見える山の尾根はほとんど走ってきた。今でも景色が思い出される.

ヒルのような気持ち悪いものでも、役になっている話。

―― 最近買った藤田紘一郎著「体にいい寄生虫」という本の中に、ヒルの話が出てくる。話はこうである。指先がなにかで吹っ飛んだ。それを元の指に縫合してくっつけるのだが、血行がよくないとポロリと落ちてしまう。ところが指先にヒルをくっつけて吸血させると、うっ滞を取り、血行がよくなり、指がよくつくのだという。この治療は正式に許可されて治療費も請求できて、東北の八戸では今でもヒルを売っているという。――

あなたも一匹どうですか。頭の血の巡りにはどうなんだろう。こめかみに一匹くってけておいて、毎日挨拶するというのは。お早う「血ちゃん」今日も元気かい、とすっきりした頭で「血ちゃん」とスタートする。町の中はこめかみから太った蛭をぶら下げて、ヒルを誉めあっている光景は、なかなか凄味がある。

「おや、チーチャン元気」
「おたくの、吸いちゃんも元気そうで」……

ヒルの生態。

ヒルは人の出す二酸化炭素に反応して襲ってくる。もし噛まれたら、無理に引っ張ると口だけが残る。ヒルを踏んづけてもゴムのようにグニャグニャしてなかなか死んでくれない。

そこで登場するのが何と《食卓塩》でけっして味塩やゴマ塩ではない。これを一振り二振りすれば「ハイそれまで~ョ」である。できるならば暴れ将軍のように「成敗」と一言叫んでから一振りする方が効き目はある。ヒル山へようこそ。

                     吸いつきたくなるようなあなたへ

 

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2013年5月25日 (土)

ソーメンの思い出

佐渡へ行ってきて、腰が変になった。2泊3日は少し私には無理があったようだ。やっとブログ更新をする気になった。マウンテンバイクばかりに乗っていたので、歩く筋肉を落としてしまった。人間は歩くようにできていて、マウンテンバイクに乗るようになっていないことを痛感した。いま大腿四頭筋とフクラハギが痛いので、這い回っている。

暑くなるといつも思い出すのは、昭和25年前後母親の在所に従兄弟が全員集合してきた。その数は12人ぐらいである。いくら田舎でもこの数を食べさせるのは大変だったであろう。しかも一週間ぐらい共同生活をしていた。

おじいさんのお経から1日が始まる。そして御勝手に箱膳が並ぶ。昼はいつも素麺(そうめん)だった。その汁というのが生しょう油で、要するに溜りというやつ。赤みそを作る時に出る上澄みで、まるで塩汁である。子供にはとても辛く、素麺にタップリ水をつけて生醤油を薄めた。

それを見た爺さんから、「もったいない」と叱りつけられた。素麺を見るとこのことをいつも思いPhoto出す。

在所の横には小川が流れていて、かいぼりと言って川の上下を止めて、水をかいだして小魚やザリガニを捕ってゆでて食べた。自分たちの食糧を確保していた。

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2013年5月17日 (金)

ローラースケート場

このごろローラースケートはどこへ行ったンであろうか。

ひところは東京ボンバーズというチームがあり、ローラースケートとプロレスを組み合わせたようなゲームがあった。

 

今のローラースケートは縦に四輪のものが多いが、私たちの子供のころは自動車形の四輪であった。昭和25年~30年ごろ、珍しい縦型を作った子がいた。隣の町内の安井の兄ちゃんが、アイススケート形の三輪のローラースケートを一人で作った。

 

一躍仲間の中では英雄扱いである。だれもが一度は使いたかった。

だんだんローラースケートがブームになってきた。市内はまだ舗装が少なかったので、真清田神社の裏にローラースケート場が出来上がった。今は改築されて噴水になっている。

 

道は徐々に舗装されていった。今の県道名古屋岐阜線(昔の国道22号線)は大半が舗装されていたが、車はほとんど走っていなかった。そのころの輸送手段はまだ馬車が使われていた。大きな荷車に馬主が乗り、馬がパカパカと引いていく。その馬の糞を見つけると、文句をいわずに拾ってきて、畑の肥やしにした。間接的には人の肥やしにもなった。この糞に乗ると背が高くなるといわれていたので、子供は平気で踏んでいた。

 

国道をローラースケートで遊んでいるときに、たまたま日通の馬車が通りかかった。その馬車の周りをガラガラ滑り、疲れると、

「おじさん乗せて」

といって荷車の上で休んだ。

こんな調子でずいぶん遠くまで遊びに行った。記憶では一宮市内の今伊勢辺りだから、4キロほどある。当時の子供はずいぶんとタフだった。

今は縦に4輪のローラースケートで靴までセットされているのが主流である。江南のスイートピアから一宮の野鳥公園まで木曽川の河川敷に遊歩道が出来た。ここにローラースケーターが集まるようになった。延々と5kmは走れる。

私はここを、マウンテンバイクでよく走る。西濃の山が丸見えで景色もよく、車が入れないので安心でき、歩行者も少ない安全な場所だ。森の中では戦闘服を着て戦争ごっこをしている若い集団がいる。野鳥を撮っているカメラマンも沢山いる。いいスケート場だ。

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2013年5月16日 (木)

カルメ焼きと燻製つくり

誰からもらったのか、菓子箱の中に京都のカルメ焼きがあった。懐かしいなァ。子供のころ親父が火鉢に子供を集めて、みそ汁をすくうお玉で砂糖に重曹を入れて作ってくれた。これをどうやって作ったのか覚えていないので検索すると、ウィキペディアにでてきた。

――この菓子はいわゆる駄菓子の一種で、今日でもお祭や縁日の露店などで稀に見掛けることができる。直径は10cmほど、厚みは4~5cmほどの「亀の甲羅」に似た中央が膨らんだ楕円状の菓子である。発泡させた飴のようなモノでもあり、サクサクした歯応えと濃厚な甘さ、加えてカラメルのような砂糖の焦げた風味がある。

語源はポルトガル語の「甘いもの」(caramelo)による。作るには砂糖を融かす熱源と砂糖を融かす型、そして拌するための割り箸や菜箸のような棒があればよい。材料は水・砂糖・重曹(膨らし粉)である。――

ポルトガル語だと?

――作り方は単純で、ザラメまたは赤砂糖(三温糖)に少量の水を加え加熱して融かし、重曹を加えて手早くかき混ぜ、炭酸ガスで発泡したところで、冷やしながら軽石状に固めたものである。古くは重曹の代わりに卵白を用いていた。ただ、砂糖と水の分量や、火から下ろすタイミング次第では失敗することがある。冷やす際には、水に濡らしたタオルの上に形を押し当てながら、溶けた砂糖が発泡状態のまま固まるようにさせる。――

私と長男で綿菓子を作ろうと、実験した。まずチャンプ用のガスバーナーに火をつける。その上に空き缶に穴をたくさんあけて、砂糖を入れて、空き缶を電動ドリルに固定した。そして火の上で回転させれば綿菓子ができる。でも辺りがベタベタになるかもしれないので、ストーブの囲いに新聞紙を張りつけて実験開始。

ところが、電動ドリルと空き缶が不規則に動いいたために、あっという間に辺りは溶けた砂糖でベタベタになってしまった。

こんなこともあった。燻製を作ろう。燻製作りの本を買い、用意したのは、魚、ウインナー、チーズ。そこで四角いダンボールに穴をあけ、用意した食材を串にさし段ボールに固定した。キャンプ用のガスコンロにフライパンを載せて、日曜大工の店で買ってきた桜のチップを載せて点火したら、段ボールごと全焼してしまった。幸い裏庭だってので家は無事だった。

バカなことを子どもとよく遊んだ。懐かしいいなァ。

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2012年6月15日 (金)

戦後間もない、町内の備忘録に取りつかれた その三

町内の二組の規約も決まり、戦後の二組の活動が見えてきた。

昭和23年には、出産のお着料二軒と結婚一軒の祝儀、香典一軒が初めて支給された。

ここには21年から25年までの配給一覧表が書いてある。21年は8月、10月、11月。22年は8月、11月。23年は2月、9月。24年は3月、6月、9月、10月。25年には1月……。
不規則な配給が記載してある。配給品の初めは、中袋とタイヤである。ここで中袋とは、福袋ではなく、チューブと読むのだと途中で気が付いた。この当時はよくチューブとタイヤが支給されていた。今ならサイズが気になるが、この当時はすべての自転車は同一規格でしかなかったんだろうと思わざる得ない。ある月は、二組組員13軒にタイヤ2本、チュ-ブ1本。これを配分表から順番に配給していく。

あの当時、子供でも大人の自転車を「三角乗り」といって、サドルに座れないから、サドルの下のフレームの三角部分に足を突っ込んで器用に乗り回していた。

昭和24年3月。六・三制起債裏付貯金ができて、町内に市役所から2万円の割り当てが来ていた。それを組に配分して、組では個人のできる範囲で募集をかけ、不足分は資産家が払っていた。これが学校の6・3制が始まり、私たち姉弟は、13年、15年、17年だから、この制度で入学できた。こんな公の件まで、行政から町内への依頼が公然と行われていた。

昭和24年4月には、配給も家族の人数に応じて支給されていた。支給品は、綿布28枚、タオル3枚、湯上りタオル10枚がきていた。この当時第二組は13軒で、町民の人口は68人であった。現在は10軒24人(?)である。「?」のところは個人情報の関係で不明である。7人家族が2軒、6人家族が1軒、5人家族が4軒と大所帯である。

税金の集金も町内がやっていた。この当時、自転車税1台260円、荷車税195円、犬税390円が記載してある。一軒だけ金融税を払っている資産家があった。今のなんにでもかかる掛かる消費税よりはまだいいかも。しかも一宮市愛市公債予約申込額の記載が出てきた。これも各組に割り当てがあり、不足分を資産家が払っていた。

この当時、治安が悪いので犬はどこの家でも飼っていたと思っていら、組のど真ん中に住んでいるわが家だけが犬税を支払っていただけだった。ということは他は犬税を逃れていたと思われる。今頃脱税を見つけしまった。

市民税扶養親族申告書を出している。その控えには、家族人員・扶養人員・稼働人員・職業まで町内が調べて申告している。

24年9月4日午後8時より第二組集合せられたり。本日放出物資ランニングシャツ8枚、丸首シャツ14枚の割当購入票を、ランニングシャツは家族人数が大なる者より配分を決したるも、1名棄権の申し出ありに依り、次の人数多き者より八名に配分することに決す。丸首シャツは全員に1枚配分した。

25年9月を最後に、配給の記載が無くなった。たかがシャツ1枚といえども、真剣だったことを窺わせる。

このころから、近所の付き合いを大事にしていたことが書き記されている。

次回は最終回その四です。

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2006年12月15日 (金)

若狭の思い出

昭和43年~48年頃、若狭湾の日向湖の脇の松原旅館という民宿へよく出掛けた。当時ここは大阪の三菱自動車の指定旅館になっていた。そこへ私の勤務していたカローラ店の旅行に使った。オヤジさんと女将さんの素朴な人柄と、格安な料金が大変気に入った。さっそく親会社のトヨタ店に勤める友人、俊夫と雄次を連れて行った。私と同じで世話好きで、それぞれの営業所の幹事をやっていた。

各人が営業所の旅行を企画する、気に行った人が家族を連れてくるという連鎖反応が起きて、アッという間に三菱を追放して、トヨタが乗っ取ってしまった。

年に2~3回遊びに行っていた。私たちが行くと決まって近所の子供が遊びに来て、ハーモニカを吹いてやったり、ゲームをしたりして裏庭でいつまでも遊んでいた。昼間はすぐ近くの海に入り、素潜りでウニやアワビ、サザエを捕ってそのまま食べた。アワビの小型な3cmほどのトコブシは茹でて食べた。

夜になれば若狭で捕れたての海産物で食卓が賑わう。この松原旅Photo_138 館が閉鎖したのは、旅館の料金を一律にするという、組合からの通達に反感を持って止めてしまった。

あれから34年、ふと思い出して連絡先が分からないか2人に聞いたところ、俊夫が当時の年賀状を持っているという。(マァよくそんなものしまってあったな)

さっそく連絡したら、女将さんが当時のことをよく覚えていて下さった。なんと青春時代の足跡を見つけた。一度近くの来たら寄るように、そして当時の写真もあるという嬉しい話で電話を切った。若狭に私の痕跡を残すように、私のエッセイ集を贈っておいた。

そうそう思い出した。敦賀より北に河野海岸がある。ここにも行き付けの民宿があった。確か下駄屋でなかったかなァ。目の前は海で、すぐ近くに船止まりがあった。漁師が水揚げをするのが面白く、よく出掛けた。

ナマコが獲れたが食べるかと、船から面白半分に放り投げる。落ちてパンクしたハラワタからコノワタを取り出して食べさせて貰ったことがあった。珍味と言うが味が分かるほど量がないから、今もって味の思い出ではない。フグなんかも獲れたのを、ほんの少しシッポの所を切らずに、そこに紐に掛けて干しておく。

フグの毒はどう処理したのかは知らないが、たくさんもらってきたことがあった。家で焼いて食べると、なぜか少ししびれるのがあったので、怖くなり、飼い犬に食べさせて半日様子を見てから食べたことがあった。朝方網を上げに行くと言うから、乗せて貰う約束をしたら、船頭が時間を間違えて先に行ってしまったことがある。船頭からお詫びに、シイラの大きなのを3匹頂いた。これはすぐ鮮度が落ちるからなかなか市場には出にくい代物で、地元でよく食べるという。これは氷詰めにして持ち帰り、その日の内に食べたがうまかった。

機会を作って行ってみたいものだ。ある日の青春時代を求めて。

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2006年12月 9日 (土)

カエルに煙草のヤニ

開高健の『生物としての静物』はやたらと煙草の話が出てくる本だ。これを久しぶりに開いた。この本はいつも枕元に置いてある。その割にはあまり開いていなかった。こいつは最初から煙草の話がドンドン出てくる。

私は禁煙してからもう22年になる。この禁煙も、清水から飛び降りるような「よ~し、今日から止めるぞ」という一大決心して止めたのではない。風邪をひいてノドがおかしくなり、煙が痛く感じたからだ。気が付いたら10日15日と禁煙が続いていた。なんだ禁煙てたいしたことないじゃないか、ということで止めたのである。

ちょうどそんなころ、ジョギングを始めて、毎日走るのが楽しくて仕方がないころであった。このランニングも禁煙にいい影響を与えたのかも知れない。現にマラソン大会で喫煙している人をほとんど見かけないからだ。それも6000人という大きな大会でもである。私たちのマラソンクラブでも、誰一人吸わないからだ。

煙草をやっていたころは、1日30本吸っていた。給料前になると、灰皿から吸殻を拾って吸った。イガイガした味がノドを襲った。パイプもやったことがある。でもこれだけは、人前では吸ってはいけない。これを人前でやる勇気は無かった。もし人前でパイプを燻(くゆ)らせると、おそらく友人を無くすような不安を感じたからだ。生意気と思われるかも知れないと。

「桃山」パイプ用の刻みにブランデーを少し入れて、保存しておくと香りが染み込んで、火をつけるととてもいい香りがした。この方法を誰に教わったんだろう。

ハーモニカを吹いた後のタバコのうまさは、格別甘い味がしたことをふと思い出した。『生物としての静物』を読んでるだけで、体中が煙臭くなった気がしてきた。今は煙草の臭いが嫌いになり、飲み屋帰りは、虫ずが走るようないやな臭いにへき易する。

あれ?変なことを思い出した。私が子供のころ、お袋の在所へよくPhoto_135 遊びに行った。おじいさんがキセルの煙草を吸っていた。キセルの雁首、羅宇(らお)、吸口のヤニを紙縒り(こより)で掃除していた。おじいさんが「オイ坊主、このヤニをカエルに舐めさせてみろ」というから、捕まえてきて、無理やり口に入れた。しばらくすると、カエルは猛烈に苦しみだし、口から胃をポコッと吐き出して、水の中に飛び込んだ。

おじいさんは「カエルはこうして胃を洗っているのさ」と言った。

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2006年10月27日 (金)

前から横から斜めから

G大学のレントゲン室で被写体のなった。前を向いたり横を向いたり、しているうちに、変なことを思い出した。昔ラジオから流れてきた歌である。

♪僕はアマチュアカメラマン 素敵なカメラをぶら下げて

  可愛い娘を日向に立たせ 前から横から斜めから

  アッチ向いてコチッ向いて はいパチリはいいけれど

  写真ができたらみんなピンボケだ 

  ほらピンボケだ ありゃピンボケだ

  おやみんなピンボケだ

でもこの歌、今でも歌えるよ。それくらいラジオにすがり付いていた時代であった。

これを調べてみると、三木鶏郎作曲で、1951年(S26)に小西六写真がラジオ放送の日本初のコマーシャルソングとして流した。この流れた日が、なんと「CMソングの日」になっているという。念のために、こういう記念日を調べたければ、ここを探せば出てくる。http://www.kinenbi.gr.jp/

ところが、ここを念のために調べたら、登録されていないので、さっそく日本記念日協会から記念日登録申請書をダウンロードして、郵送した。

ついでにこの年の初めて登場したラジオコマーシャルは、服部時計店の「精工舎の時計が、ただいま7時をお知らせしました」であった。

このごろの歌はよく覚えている。「ミネソタの卵ウリ=♪ココココ コケッコ」「僕は特急の機関士で」「野球小僧」など。

ラジオドラマでは、この番組が始まると、風呂屋が空になるといわれOct2601_1 た「君の名は」、いまNHK衛星第1で放送中。「笛吹き童子=♪ヒャラーリヒャラリコ」「紅孔雀」「やん坊にん坊とん坊」に、真空管ラジオに聞き耳を立てた。

ときどき音が出なくなる。そうすると、とにかくたたいた。今でもテレビの映りが悪いと、たたく癖が残っている。先日医者に小槌で各関節をトントンしてもらった。背骨もトントンして異常がないかを打診してもらった。

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