2015年12月 1日 (火)

胆石を追え

11月22日(日曜日)救急車で緊急搬送された時は、みぞおちのすぐ右側のあばら骨の下あたりから、針で突き上げるような息ができないほどの痛みが来た。CTとエコーと痛み止めの休日担当医の治療で帰宅。24日に改めてCTとエコーを専門内科医に見てもらったら、石がない。もしや胆管の中に隠れているのではということで、改めて30日に調べるという。

これがねェ、院内を駆けずり回るほど移動させられた。まず8:20分に採血、これが済んだら9:00からもう一度エコー、9:40には問題の胃カメラである。これは何度飲んでも好きにならない。まずゼリー状のキシロカインビスカス2%は表面麻酔をする薬を口に含む。昨日から何も食べていないので少し甘みのついたこんなものがおいしいと思ってしまう自分が卑しい。

いよいよベットに乗り、左を下にしてマウスピースのようなカメラを導入しやすいようなアシャブをくわえさせられた。このカメラの先端部分がのどを通る時が一番「ウゲッ」となるときだ。できるだけ咽喉を開放して「ウゲッ」とならないようにしているが駄目だ。食道、胃の中から、十二指腸、胆管を調べる。腹の中を何かが動い回っているのがわかる。内臓それ自体には痛覚はなく、しかし、それを固定している筋群には痛覚があるという。でも気持ちが悪いなァ。(ウゲッ)

三回ほど医師が鉗子を要求した。これはカメラの途中から鉗子を挿入して、物をつかんだり牽引したりするのに使用する器具で、たぶん組織をとっているのだろう。目から涙、口からよだれ、鼻水だらだらという何とも汚い表情はとても見せられない。(ウゲッ)

終わって写真を見せてもらったが、石は見つからず、その代わりに胃の中に赤いあせもの様な斑点があった。3年前にはキレイな胃ですねェと言われたが、これで失点一。これはひょとして、ロキソニンという傷み止めからくる潰瘍かもしれないなァ。十二指腸にもう一つありこれで失点二、おまけに検査するたびに言われる肝硬変の疑いがあるという。今度はその検査に造影剤を入れてCTを撮った。

終了したのが11時半ごろ、かかった費用は1割負担だがそれでも6,860円かかった。

12月3日には、この際大腸から小腸まで腹を探りましょうという。イヤイヤだが仕方なく返事をした。医者にかかれば必ず病気にされる。だから定期健診なんてやったことがない。飲んでいる薬も腰痛の痛み止めだけ。院外の調剤薬局が「このお歳で何も飲んでいないというのは珍しい」と言われた。

12月2日は、あれ食べるなこれ飲むな。明日は午前中は下剤を15分おきに飲め。腹の中を空にせよという指令が出たので、どこでチビルかわからないので、外出禁止である。もし出るならパンパースが必要になりそうだ。

さて、鬼が出るか蛇が出るか、矢でも鉄砲でも持ってこってんだ。治療するかしないかの選択肢はこの私だ。

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2015年9月27日 (日)

刺身などのツマの語源

辞典を引くと出てくるのは、「妻」と「端・褄」のみである。

妻は夫婦の片割れと、「端・褄」はハシという。

「端・褄」はへりとか、はしという意味。建築でいう屋根の両端の三角になった壁面。切妻屋根、入母屋屋根など。

――「ツマ」は本来、「主体、中心となるものに対して従属的な性質を持つもの」という意味です。

ここから、男尊女卑の時代には、夫に対する「妻」という意味になりました。――

……いや古語辞典を調べると、ことによっては、違うかもよ。
(1)妻から夫を呼ぶ語
(2)夫から妻を呼ぶ語
でも中古以後は主として女性すなわち、妻という。
「ツマ」が出来のが、中世以降の時代ならば、大きく変わる。……

―― 従いまして、刺し身などの料理の場合は、メインとなる食材に「添えられているもの」ということになります。

着物の端(はし)を「つま」と言うのも、語源的には、まったく同じところから来ています。――

さてこれを食べますか?パセリなんかはたいてい残してある。これなんかは人によっては、使い回しをしているから食べるなという人もある。韓国なんかは、食べ残しを使い回すのを禁止する法案を出したら、料理業界から大反対が出て、「改正衛生法」で使い回しがOKになった.。

.8割のレストランで客が残した焼肉や鍋などすべての料理で、食材が使いまわしをすることは少なくなるかと思いますが、当局からの回収命令を無視して販売したり、韓国は、ばれなければいいという文化が強い国。また、国ですら業界団体の圧力で、統計情報まで捻じ曲げてしまいます。さらに、料理にイタズラをする韓国人もいるほど、日本人嫌いも多いですから、危険はまだまだつきまといます。

さてツマの話だが、刺身の大根のツマ、田楽の上の山椒の木の芽、私はこれも食べる。お吸い物の柚子、刺身の下のシソの葉、菊など、どれも食べてしまう。

だが、「ツマ」と「ツマモノ」は違う。ツマモノは、ヒノキの葉、南天、ビワの葉、笹の葉、もみじなどは、料理を引き立てるために用いられる葉っぱや枝花などは食べない。四季を感じるようなものを用いる場合が多い。これらは食べられない。

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2014年4月14日 (月)

私の初めてのサラメシ

NHKでサラリーマンの昼食を特集している。それを見ていて、私が初めてサラメシを食べたころを思い出した。

私が名古屋の高辻にあるトヨタのデーラーに勤め始めた。我が家は早くに父をなくして母子家庭で育った。だから食事なんてろくなもの食べたことがない。名古屋という都会で勤め始めて、昼食が楽しかった。自分で稼いだ金で昼食が出来る。

昼食は出前で取っていた。高辻の交差点に扇亭という洋食から和食まで何でも来いという飯屋があり、そこへ注文を入れていた。メニューで一番気になったのが、カツライスであった。こんなもの食べたことがなかった。だから毎日毎日飽きもせずカツライスを注文していた。少し気になるのは、やけに薬臭いなァ、と思った。セロリがサラダに入っていたからだ。セロリなんて我が家に無縁のものだったからだ。どうも好きにならない。だがカツには勝てなかった。

少し慣れてくると、外出するようになった。滝子まで行くとトニオという外食屋があったが、どういう店だかまるっきり覚えていない。イタリヤ系だったかなァ、思い出せない。

工場の北に行く、串カツ屋があった。ここのドテ飯が好きで、味噌で煮込んだトンチャンをご飯の上に乗せて、味噌を吸い込んだ御飯のおいしかったこと。この年になっても時々トンチャン屋で昼飯を食べている。

いま家内が勤めているので、週4日の昼食は、外食もしくはコンビニ弁当で腹を満たしている。だんだん貧相な食事になりつつある。まず胃が小さくなったんだろうなァ。

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2014年1月25日 (土)

徳利

いきなり「徳利」が頭の中に浮かんだ。

語源を探すと、意外やどこを探しても出てこない。唯一こんなことを書いているホームページを見つけた。

語源:1
平安時代に俗謡として歌われた詩に「トクトクと酒を垂(た)らして、疾(と)く持って来(こ)、トクリがなければ夜が明けぬ」と言う物があったとされ、ここでの酒をつぐときの音「トクトク」が語源になったと言う説があります。
しかし、この俗謡が平安時代に歌われたと言うのは江戸時代に書かれた書物にあるので、実際にそうなのかは不明です。

語源:2
豊臣秀吉が朝鮮?出兵の時に、日本に持ち帰った酒壺の事を、朝鮮の言葉で「トックール」と呼んでいたためにこの名前が付いたと言う説。

語源:3
この容器は見た目以上に多く酒が入るので得をするということから「利ヲ徳スル」と言う事から徳利と呼ぶようになったと言う説。

京都の山の中、南山城村に友人の実家がある。二十歳のころよく遊びに行ったものだ。当然泊まることが多かった。私らが泊まると決まって実家の親戚が聞き付けて寄ってきて、大宴会になる

ここの返杯はすごいの一言である。つい話に熱中していると、目の前に宴席の人数だけおちょこに酒が満たされて並んでいる。ここの返杯は、愛知県ではさァ飲みなさいと勧められて、自分を杯を空にして、酒を受けるか、相手に空のちょこを「いやいやまずは一杯」と勧めて酒を注ぐ。一対一での返杯が正式なルールだと思っていた。

京都のここは、自分の杯を空にして相手の前に置き酒を注いでおく。それを知ったら、休憩したいなァ、と思ったらどんどん他人に杯を回して注いでおけば休憩できる。それがどっこい、酒が強いのが多くて、どこからかちょこが回ってくる。

ここは校長の家で、来客が多いのと、正月ともなればもらい物の酒がたくさんある。正月2日間、5人で7升飲んだことがある。山の中の深夜はとても寒く、小便に外に出ると、いっぺんに醒めてしまうから、また一から飲みなおしである。こんなんだったから、兄嫁さんは飲んでいる間中、燗を続けることになる。可哀想なので火鉢で、ヤカンにいきなり酒を入れて燗をしていた。

今年は年末年始にかけて、私が氏子総代をやっている神社の行事が続き、飲みづめだった。ここに来てやっと酒が切れた感じだ。こういうのって、ビールを飲み過ぎてのビール腹というが、お茶を飲み過ぎると茶腹もあるが、酒飲み過ぎての徳利腹とは言わないなァ。

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2013年11月 1日 (金)

節酒は続く2カ月間

8月22日から採血してからγ―GTPを追いかけている。

事の始めリは、風邪をひいたことにある。鼻水が出る、タンが出る、のどちんこが痛い。そこで耳鼻咽喉科位にかかったら、扁桃腺と分かり、抗生物質の注射を4回打った。この時健康診断から逃げていたのに、とうとう採血することになった。そこで気になっていたγーGTPを指摘されてしまった。

以来禁酒と節酒に心がけて、生活習慣を変えようと心掛けている。

 

採血結果(γ―GTPのみ)

 

8月22日 1383

  23日 1198  -185   一日/185

9月 2日  685  -513   一日/51,3  10日目

  12日  522  -163   一日/16.3  10日目

  25日  411  -111   一日/8.54  13日目

10月29日 305  ー106   一日/3.12  34日目

これから2ヵ月後の採血をやる。9月25日から約一ヶ月経った。この間宴会が三回入り、あとは節酒に努めた。これが生活習慣を変える努力だと、つくづく感じた。飲んだ後はいつもならダラダラと飲み続けていた。それが自制できるようになったことは、今回の進歩である。

少し飲み過ぎると、舌がざらついたり、胸焼けがしたりするようになった、頭がドンとするのは、ヒョットして飲酒の拒否反応だろうか。飲めなくなるのは困るが…。

いよいよ10月27日を迎える。楽しみであり不安でもある。

先日友人が遅くやってきて、しばらく飲んだ。その後、久しぶりに帰ってきた妹と昔話に話が弾み、慎也の12時半までチビチビと飲みながら時間を過ごした。寝付いたのが1時ごろである。

 

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2013年9月25日 (水)

とうとうスイカに会えなんだ夏

とうとう今年はスイカに会えなんだ。あの巨大なスイカを見ると、持ち帰る苦労が目に浮かぶ。スーパーなどでは、切り売りしている。少子化が始まり、家族の人数が減り、我が家でも老夫婦がいるだけで、一個丸ごと買うにはデカすぎる。自転車で買い物に行くと、まず自転車の前後ろのカゴには入りきらない。しかも1km先のスーパーまで行き帰りしなければならない。

もしカゴに入ったとしても、自転車のバランスを崩して、転倒は免れない。転倒すればスイカは割れる。そこで座り込んで、割れたスイカを呆然と眺めるアホらしさ。偶然そこへ小学校の児童が通りがかれば、皆に分け与えることも出来ようが。しぶしぶ拾い上げて、割れたスイカをカゴに入れると、なんと丁度うまく収まってではないか。帰ってから砂を洗い落して、きれいな方を自分が取り、亭主には洗った方を食べさせる。亭主が、「みずみずしいなァ」とつぶやく。家内は心の底から、「そりゃみずみずしいですよねェ。夏はやっぱりスイカですねェ」と、腹から笑う。

戦後間もないころ、スイカはいつも風呂桶の中で泳いでいた。親父とお袋の在所が、両方とも農業をやっていたので、夏になると、リヤカーや運搬車というごつい自転車に大きな竹カゴに積んだ、スイカ、黄色いマクワウリ、トマト、キュウリ、ナス、コウリャー(トウモロコシ)などを頂いていた。スイカなんかはいきなり5個ぐらい貰って、昼Photoのおやつになった。シャツが汚れるからと皆裸になり、丸い飯台の足を畳んで周りを囲む。飯台に新聞紙を敷いて汁がこぼれないようにした。種入れの洗面器を用意してむしゃぶりついたものだ。種なんか取っていると遅れを取るから、私なんかは種ごと食べていた。母親から「盲腸になるぞ」と叱られた。

マクワウリを割ると、真ん中の種の付いているところが、トロトロでこれはほとんど捨てられていたものだったが、私はこれが好きでねェ、誰も食べないので、一人悠然と食べられた。

トウモロコシは茹でてもらうと、家の中にいい匂いが漂う。一度私より早く食べた姉が、まだしゃぶりついている私に、20粒貸してというから、トウモロコシの実を貸したことがった。これを返してもらったのが、ついこの間、というから40年経ってからだ。姉とトウモロコシを食べているときに20粒を思い出して、大笑いしながら返済してもらった。(利息なし)

昔のキュウリはみずみずしくてうまかったァ。縦に切り、塩をすり込んでそのまま食べた。トマトでも塩を振った。でも悔しいなァ、スイカが食べられなかったのわァ。いまは毎土日には、一宮のアーケードの下で朝市が開かれる。そこではもうスイカは出ていない。こうなるとどうしても食べたくなる。夢に見るかなァ。

追伸:スイカを食べた後、皮が残る。これを赤い実と皮の間の白い部分を綺麗に洗って切り出す。これを塩もみにすると、なかなかいい漬物になる。お試しあれ!

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2013年5月15日 (水)

砂糖の木

戦後間もないころ、夏になると、親戚からスイカやウリや砂糖の木をもらった。スイカやウリは
風呂桶に水を張り冷やして食べた。丸い飯台の足を畳んで食べた。砂糖の木というのは、サトウキビのことPhotoで、一節ごとに切り分けて姉弟で食べた。戦後甘さに飢えていて、砂糖の木の芯がカスカスになるまで噛みこんだ。

この皮を剥くときによく唇を切った。学校の校庭に小山があった。そこに笹に似たチガヤという植物が生えていた。この根っこを掘り出してかじった。これがとても甘くてねェ。

この植物はサトウキビとも近縁で、植物体に糖分を蓄える性質がある。外に顔を出す前の若い穂は白く、噛むと甘く、子供がおやつ代わりに噛んでいた。地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述がある。

茎葉は乾燥させて屋根を葺くのに使い、また成熟した穂を火口(ほくち)に使った。乾燥した茎葉を梱包材とした例もある。また、花穂を乾燥させたものは強壮剤、根茎は茅根(ぼうこん)と呼ばれて利尿剤にも使われる。

砂糖の日本国内消費・生産は、1995–2004年度の10年間平均値(1995年10月–2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。年毎の動向を見ると、総消費量は、1985年にはひとりあたり21.9kgだったものが、2010年には16.4kgと大きく減少してきたが、ここ数年は下げ止まっている状態である。

サトウキビよりテンサイの方が原料としては多いことを初めて知った。昨年北海道に行った時トラックに満載した大根のようなテンサイを見た。何か分からずガイドさんに聞くと、これがテンサイだった。

南北に長い日本列島はサトウキビの栽培に適した亜熱帯とテンサイ(ビート)栽培に適した冷帯の両方が存在する。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。 サトウキビの主たる生産地は沖縄県や鹿児島県で、戦前は台湾で砂糖が大量に生産されていた。テンサイの生産地は主に北海道である。

日本の輸入はタイが約4割、オーストラリアが約4割、南アフリカが約1割をそれぞれ占め、この3カ国で9割以上の輸入をまかなっている。

あの頃はなんでもうまかった。

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2012年9月19日 (水)

気象兵器「神風」誕生

最近の台風は、どういう訳か台湾や中国、朝鮮半島へ向かうコースが多い。

蒙古襲来の時に、神風が吹いたという話を聞いたことがある。調べるとこんな記事が出てきたのでお借ります。
――モンゴル大帝国が大軍を持って日本に押し寄せ、鎌倉幕府軍はその圧倒的兵力、兵器の前に手も足も出ず、神風(台風)が吹いて辛うじて日本は救われた・・・というのはどうも違うようです。
 第1回目の元寇、文永の役ではモンゴル軍はそもそも小手調べのつもりで攻撃してきており、いくらか戦闘を行った結果、軍議を開いて一旦撤収することになったようで、帰途で嵐にあったと高麗の史料に書かれているそうです。日本側の資料もモンゴル軍が攻めてこないのでどうしたのか見に行ったら、船がなかったと書かれており、博多湾で嵐にあったのであれば、船の残骸や死体のことが書かれているはずですが、書かれていません。
 モンゴルの集団戦法や「てつはう」と呼ばれる爆薬や毒矢は確かに苦戦したようで、個別に攻撃していたのでは埒があかず、日本軍は一旦水城というところまで退却して体制の立て直しを計ったようです。しかし、モンゴル軍からしてみれば対馬や壱岐、博多の戦闘で日本軍は死を恐れずに突撃してくる様や射程距離の長い日本の弓矢は脅威だったようで、その様をモンゴル皇帝フビライに報告しています。なお、モンゴル軍の副将は日本の弓矢で重症を負っています。
 弘安の役では台風が吹き、モンゴル軍は全滅しました。しかし、これも勝敗を分けた要因ではなく、実は当初より日本軍の圧勝だったようです。モンゴル軍が来襲したのは5月21日ですから、台風の季節には早すぎます。モンゴル軍が台風で全滅したのは7月1日(太陽暦8/23)です。この間、戦闘が長々と続けられたようです。
 モンゴル軍は12万と伝えられていますが、実は船のこぎ手も含んでおり、戦闘兵力は6万程度だっただろうと推測されています。一方日本軍は10万。しかも時間がたてば立つほど各地より応援部隊が到着しますから、数の上では日本軍が圧倒的優勢だったといえます。しかもモンゴル軍は軍勢二つのうち一つが遅れて到着しています。
 モンゴル軍は石塁によって上陸を阻止されたといわれていますが、石塁がないところから上陸したようです。しかし、そこに日本軍が数にモノを言わせて攻めこんできますから、モンゴル軍は惨敗だったようで、山口県のほうでもモンゴル軍は上陸したと伝えられており、ここでの戦闘もモンゴル軍の全滅だったようです。
 日本軍は水軍が夜襲をかけて射程距離の長い弓を放ったり、船に乗り込み首を切って持ち帰ります。それはそれはモンゴル軍にとっては夜も十分眠れぬぐらいの恐怖であったことでしょう。上陸ができなければ船に積んだ食料のうち野菜が腐って栄養が偏り、病気になる兵士も増えます。台風は最後の「泣きっ面に蜂」だったようです。――

これなんですよ。でも私は神風を信じたい。実はここだけの話ですが、気象兵器が開発さPhoto れ、太平洋に高気圧を張り巡らして、八百万の神々にお願いして、南から低気圧を誘い込む。そして尖閣諸島で神風に勢いを増してから台湾から中国へのコースと、沖縄にはすまないが、竹島で方向をコントルールして朝鮮半島へ向かわせるコースが完成した。アハハ~ッ!こんなこと書くと朝鮮の奴ら、本気になって反日運動をしかねんぞ。なんでも人のせいにする依怙地なヤツラだから。経済支援を完全に切ってやれ、手も足も出んようになるから。

中国も韓国も手を挙げたはいいが、下ろすところが無くなり、どんどん思わぬ方向に進んでしまい、困惑しているだろう。いまや世界中の嫌われ者になっている。

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2012年6月16日 (土)

戦後間もない、町内の備忘録に取りつかれた その四

戦後のドタバタが少し落ち着いたのか、慣れたのか、ボチボチ町内の意思の疎通を考えてなのか、一番原始的であるが、車座になって飲みながら話し合う機会を作ろうということになったのだろう。二組の組織ができ、配給も順当に進む中、備忘録に新年宴会の記載が出てきた。

26年1月3日夜 組の新年宴会をT様方にて開くこと

会費300円、砂糖、米は持ちよりのこと決議す

なにかホッとする呼びかけだ。でも、砂糖と米持参は驚いた。

昭和25年3月ごろから、物資配給の記載が無くなってきた。米穀通帳は昭和56年6月11日に廃止になるまで続いた。昭和35年代には米の配給制そのものは無くなったものの、食管制度上の規定では米屋から米を購入するときには米穀通帳は必要であった。確かこの当時は小学校の修学旅行でも、米持参で行った覚えがある。私が小学校6年の時は、昭和29年である。

「旅行などで旅館に宿泊し米飯の提供を受ける際などは、現物を持参するか旅行者用穀類購入通帳を持参しなければならない。(ウィキペディア参考)

さて当日の料理は、「引きずり(すき焼き)」である。

かしわ   1090円 一貫目340匁

米       280円 2升

玉ねぎ    140円 2貫目

ビール    365円 3本

酒      1550円 上酒3本

さと、菓子   50円 さと1斤

焼きフ      50円 

糸こんにゃく 130円 50匁

漬物      105円 上粕漬け

茶       130円 抹茶100円・麦茶30円

みょうが     30円

たまり     100円

木炭      130円 燃料はいるからねェ

雑費      200円

合計    4,677円   以上

物価の比較は昭和25年と現在までは、約8倍と見た方がいい。酒なんかは今に比較すると一本4000円にもなる。酒は嗜好品で高いとは思う。でもいくら上酒でも高すぎる。この時は資産家から900円の寄付があった。この当時は毎回、一級酒一升、ビール10本という寄付が記載されている。

気になるのは毎回、抹茶とかお茶、果物、菓子、柿、羊かん、の記載がある。誰か飲まない人がいたんだろうか。ヒョットして私のオヤジではなかったか。胃の悪かったオヤジは何度も手術をしていたから。

こんな宴会は、新年会、月見の会が常会だった。27年5月にはトーフ焼き晩餐会が突然飛び出した。つまみにはなんと、イカ刺身、サバ焼き。27年10月の月見の会ではかしわでなく肉1400円である。まさか犬ではないだろうな。やけの豪勢だ。今の1万円に相当する。

28年9月には電車賃が払われている。内訳をみると、ウナギ、タコ、セイゴがあったので、仕入れに行ったのか、釣りに行ったのかは不明だ。

この当時の味付けは、たまり(醤油)と砂糖である。現在とほとんど変わりがない。昭和33年には「味元」と「コショー」が出てくる。味元とは「味の素」のことなんだろうか。この前年にはマッタケが登場している。この当時は意外に安く、いまのように貴重品でなく、カズノコやカニも赤貧のわが家でも食べていた。ここでも資産家からマッタケの差し入れがあった。

こうした誰かの自宅を借りて煮炊きをしていた宴会も、次第に料理屋から取り寄せてやるようになっていき、56年で終わっていた。

いまその子供らの私たちが、田楽、餅つき、時ならぬ呼びかけで宴を催している。親を見て育ったんだな。それに飽き足らず、私個人の所属するクラブで年5回ほどやっている。しかもわが家で開催している。遺伝子を一番受け継いでいるのが私じゃないかなァ。

昭和17年生まれの私たちは、7人家族で育った。いつしか結婚する時期が来る。この記録から拾いだすと、
昭和33年       結婚4人   生まれた 1人
昭和34年~36年 結婚6人  生まれた   2人  亡くなった 1人
昭和40年~50年 結婚14人 生まれた 14人   亡くなった10人

この頃は、結婚すると家に入り、そこで子供を産んで子供も町民になっていた。今は結婚すると別居して、子供の町民は誰もいなくなった。

戦後間もなくここに住んでいた人の名前が、備忘録に書いてあるが記憶にない。そこで図書館で古い住宅地図を探したが、昭和36年しかなくて、一宮北部があり、南部のこの町内の部分が蔵書されていなかった。一番古いので、昭和41年で、それで確認するも、知らない人が地図に書きこまれてあった。この後、近くの病院がどんどん大きくなり、人口はさらに減っていった。昔を知っている人が少なくなってきているので、今の内に聞いておく必要がありそうだ。

いま高齢化が限界集落化している現在、老人の孤独、独居老人の増加、孤独死など昔と今は大違い。戦後間もないころの隣組が今もう一度復活させ、向こう三軒の老人に声をかけ、老人の無事を確認し、孤独化を防ぐ必要がありそうだ。

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2012年6月14日 (木)

戦後間もない、町内の備忘録に取りつかれた その二

備忘録はNOTE BOOKとあり、この時代は敵性語がもう存在しなくなったのだと思い知らされる。紙は粗悪で、わら半紙を少し荒くしたような、薄汚れた薄茶色で、あまり開かれないのでかろうじて今日まで保っている。所々ページの縁が風化を始めていて、具合が悪いことに第1ページ目の左端が何かの汁がこぼれたのか、ピッタとくっ付いて剥がれない。

判読不明な記録を見ると、文字数はあまりなく、全体の意味を損ねるものでないので、無理せずゆっくり引き離す。でも昭和22年から67年もたっていて、このページがいつ合体したのか不明だが、ついに破れてきた。こうすると国宝の修理というのは、気の短い私には無理だと思い知る。3

テレビで見たが、特殊な液体に浸して、根気よくはがす。私にはできない相談だ。2分と持たない根気強さ。

読み始めてすぐに、持ち込んだ辞書類が役立ってきた。この時代の人は、毛筆のよう にペン字をくずしている。かろうじて古文書を読んでいたせいで、筆記体を判読しながら進んでいく。一字判読できなければ、前後の意味から調べ、くずされた文字を、辞典で探す。これも難題で、個人の癖があるから、辞典通りにはいかない。相当のクセ字で、これがまた判じ物で面白い。

こうして1週間ぐらいかかりやっとパソコンに入力、いまその現代版の活字になった備忘録を読み始めた。

備忘録は昭和22年7月25日から始まっている。記録は縦書きで、……シテ、……トス、……セル、という具合の明治から戦前までの公文記録を読むようなものだ。しかも書き手が毎年変わり、しかも癖字の上に草書体で書いている。それがうまい字なら判読できるが、癖字がミミズを背負っているようで頭を抱える。

粗悪なノートの紙は風化寸前で、無理をするとすぐにピリッと破れる。2分しか持たない根気強い私は、ムカッとする。指がワナワナ震える。手の震えはアルコールが切れたのではない。

筆記具はペン、昔はインク壺にペン先を浸して書いていた。それと同時にガラスペン。ガラスの成型が悪いと紙に引っかかり、所々引っかきキズが残る紙面。しかもインクが滲んでくる紙の粗悪さ。

解読できなかったところは、傍線(――――)で記して読み進んだ。そして記録が始まる。

目出度甫メ(目出たはじめ)
一、昭和22年7月25日 臨時常会開催シテ、町連絡員補助員ヲ第二組ヨリ選出ノ件、協議セルトコロ、先ノ通リ会員推薦ニヨリ、当選セリ連絡員補助員、A様、右任期ハ昭和22年度トス。
ニ、冠婚葬祭ノ際ニ於ケル組員トシテ、如何ニ処スルヤヲ協議セルトコロ、左記ノ通リ決議セルニ依リ、ソノ積立金トシテ一軒宛参円集メル事トセリ。

まずこんな書き出しです。これからはひらがな書きにします。

結婚の際における祝儀
一、金50円なり
葬儀の際における香典
一、金30円なり
但し集金する場合は、一軒当たり結婚の祝儀ならば、金5円、葬儀の香典の場合は、金3円を集金し、右金額の余分は積立金に繰り入れるものとする。

という、一番大事なことから会則を決めている。

そして防犯灯増設に関して、設置場所を確定して、この費用も個人からの寄付の申し入れがあった。

その当時は治安が悪く、いたるところで泥棒が出没していた。我が家も一度ミシンの頭が盗まれた。頭を盗られたミシンなんて、穴だらけで机にもならない。このミシンに糸が付いていたので逃走経路を辿って行くが、糸が切れたのか糸が無くなったのか途中から追跡できなかった。

夜中に近所中が騒がしい。泥棒が逃げ回っているのを、近所中の男が追いかけて捕まえた。そして手足を結ばれ、天秤棒でまるで猟で仕留めたイノシシのように、ぶら下げられて警察へ搬送したのを子どもながら、こわごわ見ていた。昭和40年代、ブロック塀に囲まれたわがやの庭にはまだ防犯灯が付いていた。外灯は料金が安かった。(もう時効の話だ)

いよいよ戦後の世界がこの小さな備忘録からどう見えるか。後日、「その三」へ進みます。

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