2007年10月15日 (月)

ドラゴンズよ、日本一の竜が妙興寺にあるから、一度参詣したらどうかね

妙興寺(一宮市)の稲垣老師から、昨年頂いた『妙興寺散歩』という本のよると、仏殿の鏡天井の大円の中に、5間四方にわたる竜が、珍しく洋画で描かれている。絵師は山喜多二郎太。明治30年(1897)福岡生まれ、東京美術学校西洋画科に入り、藤島武二に学ぶ。昭和40年病没とある。

仏殿は南から入ると、うっそうとした参道の奥に「総門」があり、その向こうに一段と明るい勅使門が見える。これを右から回り込むと「竜王池」があり石橋が掛かっている。その北側に下が吹き抜けになっている山門、そして一段と高い石段の上の「仏殿」がある。

妙興寺は、明治23年2月26日、一雲水が打ち上げた花火は、折からの強い西風にあおられ、たちまち火を発し、諸殿を焼き尽くした。翌年24年には濃尾大震災で諸堂倒壊。壊滅状態の寺は、以降再建に全力を尽くした。

大正14年に仏殿が再建された。この仏殿は一宮出身の天才画家・佐分真の母たまさんらの寄進によるものであったから、佐分と親交のあった山喜多に特に天井画を依頼された。それだけに心血をそそいで製作した。

妙興寺の先々代の河野宗寛老師の『一禅僧の自伝』のよると、昭和31年の春ごろからかかって、12月に完成した。天井を下ろして立てかけ、それに足場をかけて、絵を描いた。絵の具だけでも70万円掛かったという。ただ描き代はただだという。油絵では日本一大きいそうだ。その大きさは、五間四方という。

当時の物価が、ピースが40円、ハガキが5円、封書が10円だというから相当な絵の具代だった。

絵が出来上がり、いよいよ竜に目を入れようということになった。

仏殿天井画竜点睛仏事が、昭和31年12月16日行われた。お経を唱えて、竹の一間半ぐらいの竿に筆をつけて、竜の目にポンと入れた。そうしたら、それこそ摩訶不思議、その大きい竜がうなった。

「ウオ~ッ」と。それこそ境内に響き渡った。観衆は寺側の演出だと思ったという。実は有線放送の集落中に響き渡る12時のサイレンであったという。あまりにも偶然で驚いたという話が残っている。Photo_2

右のイラストは、左がドラゴンで、右が竜だからね。同じでないんだわァ。恐竜ドラゴンとは、別々のものなんだがねェ。まァ日本一になってから、考えよみャか。

いま中日が、クライマックスシリーズで大変楽しみな活躍をしている。一度ドラゴンズの選手も、妙興寺に参詣した方がいいのではないかね。禅寺で修行僧もいるよ。

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2006年7月29日 (土)

広辞苑に一言

「ドラゴン」と「竜」。「こそ泥」と「狐鼠」について、広辞苑へ表記変更の願い。

まずドラゴンと竜である。Photo_44

まずこの下手な絵をご覧ください。左がドラゴンで右が竜です。大方の人は見て直ぐに違いが分かると思いますが。

            ドラゴン         竜

体型

  •      どう見ても恐竜      これはヘビの体型

  •      二本              四本

  •      ある              ない

特技

  •      空を飛ぶ           雲呼んで天に登る

性格

  •   凶暴で英雄に退治             おとなしく神格化

出生

  •   メソポタミヤ             中国

生まれ年

  •   紀元前3000年      紀元前1700~1100年

これだけ違うのに、なぜ広辞苑は悔いを改めようとしなのか。中日ドラゴンズ事務所でも、いまさら変更なんてできないからと、知らんぷりをしていると思う。こういうのを放置しておくから、ドラゴンズでも小さな子供まで間違いを起す。

「こそ泥」と「狐鼠(こそ)」。広辞苑では、こそ泥については、色々説明しているが、最後に「こそこそ泥の略」とある。

広辞苑には「狐鼠」は出てこないが、漢和辞典には「狐鼠」を、

  1. きつねとねずみ。
  2. 小人。小賊。こそどろ。

と、はっきり説明している。いいかい、これほどの説明があるのに、広辞苑さんの編集者・新村出さん、なんとかおしゃって! 

もう少しドラゴンと竜のことを知りたければ、下記をダウンロードして下さい。

 「103.doc」をダウンロード

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