2016年5月10日 (火)

退院のうれしさとチョット不安

私は移転性のがんで余命はいくらもないと思う。

病室は2度移転してただいま3度目にしてナースステーションの目の前である。ベルを鳴らせば10秒で駆け付けるという緊急事態即対応の患者になったのである。しかもベッドの下にはいつのまにやら、ナース呼び出し無線装置が布設してあった。深夜トイレの起きると、ベッドでモソモソ動いているうちに、もうナースがカーテン越しに来て、「どうしました」という。何と対応が早いと思ったら、この感知器のせいだった。

先日10日前の入院中、読んでいた本で、北杜夫(マンボウ)と畑正憲(むつごろう)の内容が同じ登場人物であったことに気が付いた。内容はこうである。

…北杜夫の友人がガンで入院した。その友人が同病の患者から「いい薬がある」とすすめられた。この話を畑正憲に話すと、彼が卒業した東大のガン研究所にこの薬の検査を依頼した。この薬の出成分は、鼻くそを丸めたような訳の分からないものだと分かった。そして一言、「ガンは一万分の一で回復する」と分った。その後ガン患者は回復して、その「鼻くそ丸めて…仁丹」ではないが、見事に回復して、そのガン薬を、「元患者」と言いながら売り続けているらしい。… 

私のガンはどうなんだろう?

薬・医師の限界・私自身のガンの進行状態から見て、退院はどれに当たるんだろう。

今、現在の状況は、

  • 頸椎の痛みが時々…ベッドのサイズに問題があるかも。
  • 左腰裏に鈍痛
  • 胃が時々シクシク痛む
  • 食欲がない
  • 食欲がないから便通がない。便秘ではないが、下痢症状で便秘になり、家内に救出願った。
  • 左足のむくみ
  • 両手首から指先までしびれている
  • 体がだるいから、歩きにくい
  • 退院後、家族と友人らの退院祝い(?)で、おちょこに半分ほどいただいた

退院後は、いたって品行方正な日々を送っているが、いかんせん、体がだるくっては動きが悪い。こうなると、気力まで失われるから困ったことだ。

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2016年5月 4日 (水)

壊れた砂時計(末期ガンからの脱出?)

あ庭で久しぶりに帰ってきた息子が、時価26、000円(2枚)する太陽パネルを設置している。家内は友Photo人と喫茶店に出かけた。午前中は息子が私を管理している。午後は庭に花を植えることにした。こんな手はずで平穏な家庭が戻ってきた。私は久しぶりにブログに対峙している。1か月半動かさないと、指も足の筋肉も落ちるだけ落ちたから、73歳の私にはいい試練だ。ゆっくりと慌てずに進めることにした。

入院中、いろいろなメールが入っており、ひとりひとつにご返事を致さねばならないのが、この世の仕来りだろう。

300通を超えるメールからの返事が、面倒になり心入れ替えて、ブログで一括回答する決心を今始めた。中にはSPAM(不埒な)メールが多い中に大事なメールを消してしまう可能性があるからだ。

今回の入院は、事実から端的にいえば、ガンを告知されそれをすり抜けてきた。(というと聞こえがいいが、関門ギリギリで許可退院したというのが事実ではないか)

2016年4月28日、午後2時に退院となりました。しかもどういう訳か、ナースステーション手術で入院をしてきたが、こんな対応を受けたのは初めてだ。もしかして今回はよほど迷惑な患者だったんだろうかと、苦笑いで答えて退院した。

私の病への市民病院での断書は、28年3月10日 下記のごとく診断を下されました。

病名「肝細胞がん、非代償性肝硬変」と診断され、いわゆる、「アルコール性肝硬変を認め、多発性肝細胞がんの右副腎移転と診断。外来にて2015年12月より抗がん剤(ネクサバール)内服治療開始しています」

要するに、アルコールの飲みすぎにより、転移性のガンとなり、ガンが移動を開始していて、手術や抗がん剤などにより、回復の余地はないという。

私はかねがねこうなることを予感していて、日本尊厳死センターに会員登録をして抗がん剤を使用しないという死を覚悟していた。それも友人がもう12年前に脳こうそくで倒れ、今や家庭内でも車いすの生活で、家族に苦難を強いられている。これを見ているからである。

とにかく退院したが、ブログを書くまでの気力がなかなか起きなかったが、やっと平穏な一日Photo_2
で指先が目を覚まし始めた。とにかくボチボチですが、始めることにします。またお付き合いのほどよろしくお願いします。

これからは、この先の人生を、周りを困らせながら、永らえてやろうじゃないか。

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2016年3月30日 (水)

病室より

私が入院するときは、我が家から700mと近く、私が卒業した幼稚園・小学校・中学校・高校が真上から見える。そんな学生時代を思い出すのも、格好の場所である。

なぜか病室というところは、やけに頭が冴える。何が起ころうが対処してくれる安心感があるのだろうか。今回の病室は最初は個室だったが、3日目に転室して相部屋になった。といってもカーテンで仕切られているし、意外や同室の患者は重病なのか、物静かである。

大量に持ち込んだ本を読みながら、スケッチと思たが、今回は少し症状が重い。先回は脊椎間狭窄症・頸椎ケルニア、十二指腸潰瘍と、確実に治る病状なので、本も読み、スケッチに院外に出た。その分病気という休暇を楽しんだ。

でも今回は先が少し不安な病状なので、本を読んだりスケッチを楽しむところまで気がいかない。その分病室の窓からや、ベッドの上で、瞑想にふける時間が増えた。例えば、

  • 痛み止め(ロキソニン)には水分を十分摂りなさいというようなことを、医師に質問攻めにした。
  • 院内の食事の名前が、「ゆめごはん」というネーミングが嬉しかった。
  • 焼きのりの寸法に国内基準があるのか。
  • 採血の後の血止めのは、スパイラル(ねじまき方式)のほうが、うっ血(血が止まってしまう)ということがない。
  • 院内の公衆電話の切れるのが早いのに驚いた。これでは古里のバーチャンと何も話せない。最近携帯電話ばかりだからなァ。
  • 4日間歩かないと、足がふらつく。退院後11日間たったが、いまだに歩行に障害があるなどという、へんなことを考えている。
  • カラスの朝晩の行動を記録した。

入院すると必ず院内日記を書くようにする。これは医師との通信記録だからだ。

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2016年3月29日 (火)

病床から脱出

だが病魔からは逃げ出したわけではない。

一昨年から内臓関係に異変を感じて、通院を余儀なくされている。昨年暮れに突如その異変が激痛になって起き、救急車で搬送され、診察と検査を繰り返す羽目になった。昨年暮れに再検査となり、スキャナー・CTなどを繰り返し3月13日にとうとう入院することになった。

約一週間、食べるな水飲むなど、点滴だけの苦行を乗り越えた。

「この手の病気にしては、あなたは元気がよすぎるから」
と、退院を勧告された。病名を明かすには、はばかりたくなるような若き日の悪行の数々。今から大いに反省しても過去は帰らないから、ただ前向きに生きることに残された人生をかけたい。一昨年、
「来年の桜は見られるだろうか」
不安を感じた。その来年の桜がもう満開になりつつある。今は自宅謹慎中なので、どうも桜を見ることができそうになさそうだ

しばらくブログを休んでいたが、これからボチボチですが書こうと思っております。このブログが途絶えた時が、桜の見納めになるだろう。

この休んでいる間に、ブログや、メール、電話でご心配をいただき、これを励みに尻を叩こう思います。まだ少し長生きをしたいから。

そこでわがパソコン基地を作った。右手には我が家より立派な五階建てのパソコンデスク。
一階には、これらの配線がゴチャゴチャと這いまわているし、レターケースが陣取っている。
二階にはコピー用紙と書き損じのパソコン用紙。これはメモ。
三階には小さなレターケースと電話機。パソコンデスクに市販の合板を横に這わせて、その端をキッチンの椅子にひっかけている。そこにパソコンと電子手帳2台、マウス、携帯電話。これで高さがひじ掛けぐらいになる。
四階にはレターケース、今まで通院した記録と町内の役職とマラソンクラブの事務局の過去現在の記録をクリアケースに収納。住所録、ラジオ、電波時計、息子がくれた小型のE550富士フイルムのデジカメ.このデジカメは、庭に来る季節の鳥のバードウォッチング用としゃれてみた。
五階には無線ラン、コピー機、庭に来る鳥観察用の小型の双眼鏡をアレンジした。これで少しは子供のころを思い出す基地ができた。

さてこれからこの基地発信のブログを書くとする。でも桜を待つのがいつまで続くだろうなァ。

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2016年2月 6日 (土)

生物はどこの器官から発達したか

こんな疑問から、科学雑誌『ニュートン』を探し回っていてやっと出てきた。「最初の器官は口と肛門」であるという意見が出てきた。

生命にとってエネルギー源となるエサを取り入れ、いらないものを体外に排泄する機能はもっとも基本的なものでしょう。例えばクラゲの様な生き物(刺胞動物)では、エサをとる穴も、排泄する穴も同じです。同じように、私たちの遠い先祖も最初は口と肛門がいっしょで、その進化の過程で二つの穴と別れていったと考えてられます。これは2005年11月号のニュートンからである。

ところが最近のニュースでは、

―― 60年前に深海で見つかった紫色の靴下のような姿をした生物が、進化の初期段階の生物だったことが分かったとして、オーストラリアや米国の研究チームが科学誌ネイチャーに論文を発表した。生物の進化の過程について探る手がかりになるとしている。

「珍渦虫(ちんうずむし)」と呼ばれるこの生物は、脳も目も生殖器もなく、1つだけある開口部から餌を取り込んで排泄(はいせつ)物を出す。スウェーデン沖で発見され、1949年に報告されていながら、正体についてはさまざまな説があった。当初は軟体動物と誤解され、複雑な生物が退化して単純な生物になったという説が有力視されていたという。

しかし西オーストラリア博物館のネリダ・ウィルソン研究員らのチームが調べた結果、珍渦虫はもともと進化の枝分かれの初期に位置する単純な生物だったことが分かったという。 ――

要するにまだ初期的進化の状態を保ったままの生物が、この地上にまだいるということだ。

最近よくブログをお休みをいただくが、夜は9時には就寝、朝はどうしても4時半に起床してしまう。朝のラジオ体操に出かけ、仲間たちに時のあいさつ…というより、顔を出さないと仏にされるからだ。もう半年来ていない御仁の消息が分からない。誰かを使者に差し出すかという話だ出てきているが、こういうヤツに限って、人当たりが悪いやつで、誰も行こうとしない。だから今もそのまま。7時に朝食を過ぎて、NHKの朝ドラ「朝が来る」を見て、リクライニングシートを倒すと、本を持ったまま、いつの間にかうたた寝している。

10時にはマウンテンバイクにまたがり約一時間徘徊、ドラマを見て昼食、うたた寝、マウンテンバイク、ドラマ、うたた寝…どう考えても寝てばかりいる。

オレは「珍渦虫(ちんうずむし)」の反対で、どんどん退化していくのではないかと案じられる。でも寝ているときは極楽だがね。天国には少し早いが。

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2016年1月 6日 (水)

たばこと酒

昭和55年12月に禁煙をした。というより、風邪をひいてのどが痛くて吸えなかったからだ。気が付いたら2週間たっていて、ならばと止めてしまったのが、1983年11月であった。この頃ちょうどジョギングを開始したころであった。

今マンボウさんに本を読んでいて、たばこの話だ出てきた。

昔は淡波姑、淡巴菰、答跋菰、莨菪、多葉紛、侘波古とも書き、相思草、返魂草、金糸草、南蛮草、慶長草、貧生草、愛敬草、思案草、延命草、常薬草、永楽草、養気草、阿房(あほう)草、労咳草などおびただしい異名があった。

煙草は徳川時代の前に、はじめ豊臣秀吉によって禁じられ、当時の落書に、

「きかぬもの たばこの法度 ぜに法度 王のみこゑに けんだくの医者」
これは、効果の無い物は、タバコ禁止令、撰銭令(質の悪いお金は使っちゃ駄目)、天皇の言葉、威張って嫌な感じの医者(のする治療)という感じの意味です。

 

やがて慶長14年、幕府は最初の禁煙令を出したが、これより先、慶長12年に、人々が梵語にて「きせる」というものを懐中にし競って煙を吹いているのが、無益ゆえ堅く禁ずという布令あり、同13年にも、たばこの害により悶絶して頓死したものがあるから再び禁ず、という布令が出ている。

 

その後もしきりに禁煙令は出た。第5回元和2年のときには、煙草を耕作する町民は50日、農民は30日の入牢に処し、獄中の食事はすべて持参のこと、煙草を売買した者も同様、なお連帯責任として、煙草を耕作した者の場所いたものには、百姓1人につき鳥目(ちょうもく)百匁ずつ、どう代官は銭五貫を罰金として出さしめた。第6回元和5年には、きせる狩りが始まり、日本橋のかたわらに江戸中にきせるがおびただしく集まった。その後も禁令は何回も出されたが、これを無視するものは多く、大槻玄沢は、「薦録(ごえんろく)」の中でこの茄法(かほう)も人の好みは制御しがったきと書き、後水尾院御製として、

「藻塩やく海人ならねど煙りくさなみよる人のしほとことなれ」という歌を記している。(ゴメン、意味不明)

酒は高校を出たらすぐに飲み始めたからもう55年飲んでいるが、昨年暮れから胆石らしい症状が出てきたので胃カメラ・大腸検査・エコー・CT・MRIの検査の連続で、この年末年始と新年会は人の飲んでいるのをジッと眺めていただけだった。でも何とか酒からの誘惑には勝ったというか、窮地を脱したが、これから検査結果の総合的な判断が下される。この15日間の禁酒がどう影響するか気になる。

御年73歳、酒を取るか残りの老後を取るかといえば、酒を取りたいねェ。

先ほどの歌を思い出す。「きかぬもの たばこの法度 ぜに法度 王のみこゑに けんだくの医者」…この中のタバコを。酒に変えるだけだが。

 

 

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2015年12月 5日 (土)

大腸検査を体験した

11月22日 急に右腹が痛くなり、救急で搬送された。結果、胆石か胆嚢炎の疑いがあるという。休日なので専門医でないため、24日に改めて消化器内科の判断を仰ぐ。

11月30日 胃カメラを飲むことになった。食道・胃・十二指腸、胆道を検査するが、胆石が見つからない。わが体内でできた真珠が行方不明になったからだ。胃と十二指腸に小さな赤い斑点が各1個見つかる。

12月2日  とうとう大腸検査をする羽目になった。これは胆石というより、成り行きでこうなってしまった。
試練は、前日の12月1日から始まった。朝昼晩ともに、消化のいい食事を摂るようにとい1

う指令(メニュー)が来た。こんなこと何度もするものではないから、きちんと対応しようと思った。三食ともお粥と山芋をすりおろし、生卵と決めた。それにしても腹が減るので、たまらず、きしめんを具なしのうどんツユだけで腹ごしらえをした。

とうとう2日が来た。予定どおりam10時から「経口腸管洗浄剤・モビプレップ」を水に溶かしコップで飲み始める。味はポカリスエットに砂糖をたっぷり入れて塩を足したような味だ。製造元はナナナンと、味の素製薬であった。これを15分おき2時間というからなんていうことはないと思ていたら、空腹の腹がダブンダブンといいかけた。それが過ぎたら水を飲めという。まるで南町奉行所で拷問にあっているようだ。

ところがまだ下剤の効果がないと思っていたら、11半ごろから兆候が来た。こんどはモゾッとするたびにトイレに駆け込むことになった。途中で粗相のないように、トイレの近くに陣取った。だんだん便が透明になった来た。それはまるで蛇口のコックをひねるように水を吹き出す。よくできた薬だ。兆候がき出してから約1時間で私の腹は空っぽになったことを確認した。

少し早いが15:30に病院の中央画像診断室で受付を済ませて、トイレに近いイスで本を読む。16:00ごろ呼び出しがあり、血便色いや失礼、猩々緋(しょうじょうひ)というんか、赤レンガ色のナースについていく。入ってすぐに着替えを指示される。全部脱いで、パンツは、大腸検査用のお尻に切れ目の入ったハーフパンツと上着を羽織り診察台に這い上がる。左を下にして横向きになる。そして少し尻を突き上げた姿になる。肛門に局部麻酔のゼリーを塗り、いよいよ内視鏡が入る。

内視鏡の移動経路は下記の図のごときである。曲がり角の来ると少し突っ張る感じがするのと、時々空気を入れると、腹が急に張った感じがする。ゲッ!屁が出ると思ったら、内視鏡のほうで「ブ~ッ」と弁が震える音がしたら、急に腹の中の空気が抜ける感じがした。少し力んでやったら、音が変わった(アハッ、確かめてやった)。内視鏡が屁をこいた~っ。

一般的挿入法(修正版).jpg

25~30分ほどで屁をこらえながら、ジッと我慢の人であった。検査が終わり医師にどうでしたと聞くと、8日に消化器内科の医師の今回の一連の診察結果を話しますという。

いま話せばいいのに。それとも今回はポリーブを取るともという話もなく、もしかして手遅れで、手の施しようがないのかもしれないなどと思ったり、8日にするということは、緊急なれば、明日主治医の説明を聞いてくださいと言うだろうに。どっち道間に合わないから、8日でもいいかということか?

17:00に会計を済ませる。帰り道そんなことを思いながら自転車を漕いだ。帰り際に、虚の食事は辛い物や油っ気のものは避けるようにという最後通牒がきた。それにしても腹が減った。

 

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2015年12月 1日 (火)

胆石を追え

11月22日(日曜日)救急車で緊急搬送された時は、みぞおちのすぐ右側のあばら骨の下あたりから、針で突き上げるような息ができないほどの痛みが来た。CTとエコーと痛み止めの休日担当医の治療で帰宅。24日に改めてCTとエコーを専門内科医に見てもらったら、石がない。もしや胆管の中に隠れているのではということで、改めて30日に調べるという。

これがねェ、院内を駆けずり回るほど移動させられた。まず8:20分に採血、これが済んだら9:00からもう一度エコー、9:40には問題の胃カメラである。これは何度飲んでも好きにならない。まずゼリー状のキシロカインビスカス2%は表面麻酔をする薬を口に含む。昨日から何も食べていないので少し甘みのついたこんなものがおいしいと思ってしまう自分が卑しい。

いよいよベットに乗り、左を下にしてマウスピースのようなカメラを導入しやすいようなアシャブをくわえさせられた。このカメラの先端部分がのどを通る時が一番「ウゲッ」となるときだ。できるだけ咽喉を開放して「ウゲッ」とならないようにしているが駄目だ。食道、胃の中から、十二指腸、胆管を調べる。腹の中を何かが動い回っているのがわかる。内臓それ自体には痛覚はなく、しかし、それを固定している筋群には痛覚があるという。でも気持ちが悪いなァ。(ウゲッ)

三回ほど医師が鉗子を要求した。これはカメラの途中から鉗子を挿入して、物をつかんだり牽引したりするのに使用する器具で、たぶん組織をとっているのだろう。目から涙、口からよだれ、鼻水だらだらという何とも汚い表情はとても見せられない。(ウゲッ)

終わって写真を見せてもらったが、石は見つからず、その代わりに胃の中に赤いあせもの様な斑点があった。3年前にはキレイな胃ですねェと言われたが、これで失点一。これはひょとして、ロキソニンという傷み止めからくる潰瘍かもしれないなァ。十二指腸にもう一つありこれで失点二、おまけに検査するたびに言われる肝硬変の疑いがあるという。今度はその検査に造影剤を入れてCTを撮った。

終了したのが11時半ごろ、かかった費用は1割負担だがそれでも6,860円かかった。

12月3日には、この際大腸から小腸まで腹を探りましょうという。イヤイヤだが仕方なく返事をした。医者にかかれば必ず病気にされる。だから定期健診なんてやったことがない。飲んでいる薬も腰痛の痛み止めだけ。院外の調剤薬局が「このお歳で何も飲んでいないというのは珍しい」と言われた。

12月2日は、あれ食べるなこれ飲むな。明日は午前中は下剤を15分おきに飲め。腹の中を空にせよという指令が出たので、どこでチビルかわからないので、外出禁止である。もし出るならパンパースが必要になりそうだ。

さて、鬼が出るか蛇が出るか、矢でも鉄砲でも持ってこってんだ。治療するかしないかの選択肢はこの私だ。

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2014年12月 1日 (月)

我が家の紅葉

妙興寺の西にある博物館では今紅葉が美しい。
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今日の雨で色あせるだろうなァ。

我が家も負けじと紅葉している。ドウランと珍しい目薬の木である。これは妙興寺に3年ほど前に信者さんから寄進されたものだ。2

これはカエデ科なので紅葉する。秋になるとモミジと同じ、トンボの翅の片方を付けた下にタネがついているからクルクル回りながら落ちてくる。この種を拾って植木鉢に植えたら芽を出した。

なぜ目薬の木というのか調べると、
――「メグスリノキ」は、カエデ科の落葉樹です。日本にだけ自生する珍しい植物で、秋には鮮やかに紅葉します。青森、秋田の両県を除く本州全域と四国、それと宮崎、鹿児島、沖縄を除く九州に分布しています。標高700メートル前後の山中に多くみられ、イチョウなどと同じく雌雄異株(オスの木とメスの木がある)です。

和名は、戦国時代頃から樹皮を煎じた汁を目薬として使用すると眼病などに効用があるとする民間療法があったことに由来する。

フジグリーン社が、メグスリノキの商品化で有名。創業者の柏倉実が、東京大学の技官山中寅文にすすめられたことが、開発のきっかけという(毎日新聞・栃木版、1996年12月10日「頑張てます」)。――

フジグリーン社の商品は、インターネットで調べると「メグスリノ木 抹茶」として売られていた。

いいニュースを拾ったぞ。
――古くから、メグスリノキに含まれる成分は、目と肝臓の調子を整えることが知られています。
 
漢方では、「肝気は目に通ず、肝和すれば目よく五色を弁ず」(肝臓は目と密接な関係があり、肝臓の働きがよくなると目もよくなる)という考え方にもとづき、眼病に対して肝を強化する処方を用いることがよくあるのです。――

これを盆栽にしようと思ったが止めた。早く大きくなれと肥しをドカンとやたろう。そして煎じて飲むのだ。

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2014年5月16日 (金)

高血圧と塩

最近血圧の基準が上げられた。上が130から147以上に変更された。2000年ごろは160~85以上だったのに。ところが家内が通っている内科では、いまだに130を使って高血圧の薬を出されている。

塩は悪者かという記事が出た。

http://www.kousyoku.net/topics/?cate=5&id=20130302130027


 

塩分が悪いとされたのは、アメリカの学者L K ダール博士が1960年に発表した論文がきっかけとなっています。その内容が、1日13〜14gの食塩摂取する南日本の人々の高血圧発症率が約20%という数字に比べ、1日27〜28gと2倍のも摂取量の東北地方の人々は発症率が約40%という結果が出たため「塩分こそ高血圧や脳卒中の元凶である」とされたものでした。
しかし、減塩運動が全国に普及した後でも、日本の高血圧患者はむしろ増加しています。

その後1983年にアメリカのジョン・ラルフ博士はアメリカ医師会の医学誌に「塩は毒物でない」というタイトルで『一般の人々に対して減塩を強いるのは、何ら科学的根拠がなく効果はなかったといえる。食品製造において塩を減らす事は無意味だ。』と発表しています。

また、世界的な高血圧研究の権威で元名古屋市立大学教授の故・青木久三医学博士も「高血圧の原因が塩」とされている固定概念に真っ向から反対している。また、著書の「逆転の健康読本」(PHP研究所)のなかで下記のように書かれています。
「人間は海から生まれてきた動物園です。血液の成分表だって、驚くほど海水のそれと似ています。すなわち人間は一%の塩漬け生物であるともいえるのです。それが塩なしでは生きられるはずがありません」
もし塩が体に悪いというならば、なぜ人間は有史以前から塩をとってきたのでしょうか。


古今東西、塩は世界中で大切にされてきました。
給料を意味する「サラリー(salary)」という言葉は「塩」に由来しています。
日本でも、生活を立てるのに必要な費用のことをさす「米塩の資(べいえんのし)」という言葉があります。


戦国時代、海のない甲斐の国(山梨県)で駿河(静岡県)からの塩の道が断たれたとき、塩がなくては生きていけぬと領民がパニック状態になりました。ところが仇敵だった越後(新潟県)の上杉謙信が海水の塩を武田信玄に送ったのです。この話は「敵に塩を送る」として、後世によく知られています。
人間は海の恵である「塩」を軽視して、健康になれるはずがないのです。

○塩の効能
① 鹹味 かんみ 塩味を出す
② 殺菌力がある 食物の保存 など
③ 旨味を出す 肉や魚の身を引き締め、旨味が凝縮する
④ 体を温める
⑤ 体液の浸透圧を一定に保つ 水分の代謝や体液のpHを維持する
⑥ 神経の伝達に関与
⑦ 筋肉の収縮に必須
⑧ 胃液、腸液など消化液の原料
⑨ 体内の有害物質の解毒   など

逆に塩分の不足は
① 低体温化
② 新陳代謝の低下
③ 食欲、性欲の減退
④ 筋肉の収縮力や神経の伝達作用の低下
⑤ 腎機能の低下         などがあげられます

私なんかは血圧が160以上あるが薬は飲まない。しかもよく動き回るから、時々塩をなめる。上の塩の効能はうれしくなるなァ。こうしてみると、医者や製薬会社に踊らされているような気がする。国がなぜ動かないんだろう。徳洲会から献金をもらた政治家がいただろう。これと同じで、医療関係や製薬関係から潤っている政治家がいるだろいう想像が出来る。

 

国民の健康をどう考えているんだろう。

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